小森健太朗・遊井かなめ編著『声優論』

 本書は単著としては恐らく第一号と言って良い、声優に関する評論集。

 これまで声優に関する本と言えば、まずは声優自身による自伝的な本の系譜があり(例えば小原乃梨子『声に恋して』小学館文庫や永井一郎『朗読のススメ』新潮文庫)、第三次声優ブーム以降には人気声優たちのエッセイ集も出版されていた。

 そしてそれらと重なる形で、声優という職業とその技術について紹介する本が多く出版されてきたというのが、大まかな声優本の出版状況と言えるのではないか。
 この類型の本では、勝田久神谷明など声優自身によるものの他に、ぺりかん社の職業紹介シリーズの1冊である『声優になるには』が表題としても象徴的ではなかろうか。ちなみに同書の旧版には、先日亡くなった小川真司へのインタビューが入っていたはずだ。

 ついに声優を主題とした評論が単著として発行されたか、と評者もある種の感慨を感じたし、良く河出からの出版にこぎつけたなあとも思うし、まずはこういった企画を試み実現させた著者たちに対してはその着目を評価したい。

 ただし、率直に言えば素人である評者は本書から多くのことを知ると同時に、疑問点と今後の課題とがいささか多く目についてしまったという点も否定しがたい。
 そもそも2000年代以降の声優についての知識が圧倒的に欠落していて、声優に関する評論を自身でものにできない人間が何を言うか、と反論されればそれまでではあるし、実際本書について個別的な事実関係なり細部の解釈に関して批判を加える能力は、おそらく評者には欠けている。
 けれども、著者たち自身も未開拓の分野での評論を試みたということは否定していないので、今回は声優論の「読者」として、今後の声優論の「著者」達に何か伝えられるものはないかという問題意識から、本書について評することとしたい。




 小森健太朗氏による「序論 声の現象学から声優論へ」では、出演作品等に関するデータベース的・紹介的記事を超える考察の必要、書き手の恣意的な発想・物語を排すことの必要が論じられ、こういったこれまでの声優把握の限界を超えた「現象学」的な声優の把握が主張される。そして、音としての声の経験を論じることが主張されている。

 こういった小森氏の議論は、大筋では興味深い発想と言える。声優に関するウェブ上の情報は、とかく出演作品リストや演じた役の紹介に留まりがちであるし、アニメーションの特色自体から生じることとして、アニメ評論では作画を中心とした画の方が重視される傾向も否定しがたい。
 そういった辺りを先行研究の限界として指摘し、声優論の重要性を主張するところまでは良いのだが、本書全体を通読すると、どうも小森氏の議論の枠組みはいささか一面的ではないだろうかと思わされる。

 まず現象学的態度であるが、これは本書全体を通しても結局明確な形で実践されたとは言い難いのが実際ではなかったろうか。複数の著者の多様性の保持としては止むを得ない面はあるのかもしれないけれども、主観性・感情むき出しの評価は枚挙に暇がなく、どう読んでも恣意性・著者自身由来の「物語」上等と開き直った、いかにも現代思想的な筆致が続いた本書の序論としては、現象学という20世紀的な概念の中に余りにも19世紀的・近代的とも言えそうな素朴実証主義の要素を混入させ過ぎた嫌いがあり、本書の序論として適切だったかどうかは疑問だ。

 次に、データベース的・紹介的な議論、これは些末主義ないし個別事例への埋没として批判の対象ともなり得ると同時に良質な場合は史的把握・史的分析ということになるだろうか、この側面を批判している序論に対し、本書全体としての面白さは皮肉なことに、このような傾向の分析を展開したというところにあったのではないか、と2000年代以降の事情に疎い評者ゆえの事情は差し引いたとしても、いささか辛辣な疑問を感じざるを得ない。
 
 序論の次に置かれた夏葉薫氏による「声優史概説」は、7ページという限られた記述ながらも、声優史の全体像をおさえようとしていて、とても参考になった部分であるだけに、全編にわたってこういった通史的な視点が前面に出て展開されれば、と尚更感じてしまう。

 更に加えるならば、先行研究に相当する部分を欠落させるのは、現象学であろうが歴史学であろうが、学問的考察としては微妙なところではないだろうか。
 大衆文化論なりアニメ史なりで積み上げられてきた成果と課題を受け止める、それらと結びつくような形での声優論の考察を行うという姿勢が、序論に限らず本書全体でどこまで展開されたかという点を、やや否定的に評価せざるを得ないのは残念だ。
 声優論としての達成が、同時に従来の大衆文化論なり戦後日本のアニメ史・文化史への課題の提示と発展であるべきであるという点は、確かなのではないか。

 声・音の認識・経験の特異性については、当方に論じるだけの素養がない点は棚に上げると、どうも声優の声を論じる方法論の実践としての本書にあっても、文字としての文学や画としての絵画・演技としての演劇・映画などを評論する時と違った方法論がどこまで深められているか、という点ではやはりなお説明を求めたくなってしまう。

 以上、現象学の部分に関しては、徒に事実を積み重ねた歴史学的な方法論を否定するのでもなく、また声の経験とは異なる文字・視覚に関する経験を度外視するのではなく、史的分析や文字・絵の経験をも総合した形での検討が求められるのではないかと考えている。

 例えばたまたま評者が最近読んだからに過ぎないけれども、「イヌトリコヤ」(http://www.geocities.jp/inutorikoya/index2.html)というサイトに掲載された過去の同人誌の声優評論は、データベース的・紹介的なのは否定しがたいが、そのような側面を以て否定的に断じる前に、何か吸収できるものはないかと再考してみる方が、現在の声優論の現状としては現実的ではなかろうか。

 また現代思想の中で、フッサール以下の現象学の系譜が重点的に引用されている辺りも、哲学思想の素人としては検討の余地があるのではないかと考える。例えば、自身が未読・積読であることを棚に上げた勝手な印象として、大衆文化論としてアドルノなりヴァルター・ベンヤミンの複製芸術に関する議論なりは親和性が高い系譜に見えるのだが、如何だろうか。


 序論について最後にもう1点挙げておくと、これは本書の構成・目次を知った時からの疑問なのだけれども、なぜ女性声優、それもアニメ作品の主役級のみを主題としたのかという説明は、序論としては本来必須の内容ではないか。
 この点を序論で触れておいてもらわないと、批評の仕様が無くてそれこそ単なる「恣意」「物語」としてしか受け止められなくなってしまうように、評者などは感じられてならないのだけれども…。

 このことを記す背景に、本書で残念だった点の1つとして、個々の女性声優や女性声優同士の比較が展開された反面、女性声優と男性声優の違いという、声優論において本来重視されてしかるべき主題が展開されなかったという点が挙げられる。

 演技・声について言えば、女性声優は少年役も演じることがある、すなわち女性声優・女声声優は男女という境界を超えるという点などは踏み込めそうな主題であるし、声優の経歴・職業として見れば、10代20代の内から主役を演じ人気声優となる女性声優と、一線級になるのが遅く息の長い経歴を積む男性声優とでは、労働としての性別役割分業がかなりの程度出ているように見受けられるが、そういった点も今後論点とならないものだろうか。

 またアニメ作品の主役に限ったことで、歌手としての側面を除けばラジオパーソナリティやナレーション、外国映画の吹替えといった純粋な声に関する「経験」も評論の対象からは外れているし、助演系の声優も論じられていない。

 ゲーム作品をアニメに準ずるものとして取り上げている点は評価したいところだけれども、一方でアニメ作品の類型についてはもう少し掘り下げて分析がなされても良かったのではないか。

 つまり、かつてのように4クール50話で年間通して放送される作品が多かった時代のアニメと、1クール13話が中心の現在とでは、同じアニメの主役と言ってもかなり異なる経験であることが想定できる。また本来はある程度の時間・期間を声の出演に専念できる存在として俳優から声優が分化していったであろうという歴史的な経緯から言って、再び声の仕事が単発的になりつつあるとすれば、それは声優という存在自体の変容につながるであろう。
 こういった視点は別に評者の独創でもなんでもなく、既に前述の夏葉氏の「声優史概説」に含まれていると思われる論点であるだけに、個人的には取り上げて欲しかった部分と言える。

 更に声優の複数性とでも言うべきか、俳優に比べるとギャラが安いこともあってか主役級が「ガヤ」まで演じるとか、兼役が多いとか、そういった労働条件の影響ゆえの特質も掘り下げて貰いたかったところで、とりわけかつて24時間出演拒否というガチな労働運動まで展開された待遇・労働条件については、作画の方でアニメーターの過労の実態が問題視されている現在、労働・労働運動的な視点から学問的な分析がなされても良いように思われる声優論の一側面ではなかろうか。

 こういった点を殊更「欠落」として批判する気は評者にもないのだけれども、しかし声優論として論じる領域の選択の結果として、本書のような構成と視点が出来上がったのかをある程度説明する姿勢が、学問的な考察の重要性を標榜する序論にはある程度必要であると評者には思われる。




 序論に関する評で評者としてはほとんど力尽きてしまったため、尻切れトンボの感もあるが、可能な範囲で個別の章を振り返っておこう。

 主役オブ主役として第1章で挙げられるのは島本須美日高のり子。遊井かなめ氏はこの2人の比較の補助線をいくつか挙げており、例えば『風の谷のナウシカ』のナウシカをオタク層に、『タッチ』の浅倉南を一般層にそれぞれ受容されたヒロインと観、2人の経歴を島本の済んだ澄んだ声質と母性、日高の陽気さと少年声の経験とからそれぞれ分析している。
 この第1章のどこがどう「現象学的」なのかは、これはおそらく遊井氏ではなく序論の小森氏の方に問いかけるべき点であって、遊井氏の評論は島本による『めぞん一刻』の名演についての紹介や日高の経歴における『名探偵コナン』での役柄の考察など、むしろ個別事象の紹介や史的な分析に面白みがあるように読めた。
 敢えて言えば、オタク層と一般層という、受容する側からの視点が示されながら本書全体を通じても余り積極的には展開されなかったことについては、今後に期待したい点。

 第2章は島津冴子石原夏織との比較が展開される。繰り返しでくどいが現象学的云々はさておいて、遊井氏の議論は2人の演じた類似する役での演技から両者の声の異同を論じるという、この章の個別的な妥当性は抜きにして方法論としてはごく真っ当と考えられる、データベース的比較分析を行っている。

 第3章は町口哲生氏による林原めぐみ論で、綾波レイと歌手活動に焦点を絞っていること自体をどう評価するかというのも1つの論点ではあろうけれども、この第三次声優ブームの中心的存在について、ラジオパーソナリティや他の役柄といった側面を無限定に取り上げないというのは、本書の特色を良く反映しているとは言える。

 第4章は再び遊井氏によって宮村優子雨宮天との比較が展開される。声自体の分析による比較に対して、両者の違いを個性に限らず活動年代の違いという要素の有無も含めて考察して貰いたかったという点は、島津を80年代の富野作品と高橋留美子作品とから分析していただけに要求したくなる。ややないものねだりの観もあるけれど、感想として挙げることが出来る点ではあるだろう。

 第5章、小森氏の川上とも子論については、散々言ってきた序論の再検討として、生と死云々の部分に対し、著者自身の恣意的な物語の混入として現象学的方法論批判を展開することも可能ではあるだろう。
 ただし評者としては、そういった側面がありながらも、小森氏が2000年代を代表する声優の演技として紹介している姿勢自体は多少大胆ながらも突っ込んだ議論として面白さを感じたし、「男装の麗人」を女性が演じることの意味ももっと掘り下げることの出来る主題ではないかと感じた。

 第6章の夏葉氏による桑島法子論は、もともと本書刊行の経緯にもつながった、いわば原型というべき原稿を短縮し再掲しただけあって、素直に面白かったのだけれども、それはなぜかというと1990年代末から2000年代初頭にかけての桑島という、対象とする時代と人を限定しその理由をかなりはっきりとした仮説として打ち出していることにあるのではないかと思われる。
 演技自体に加えて、役への起用といった製作側の視点やアイドル声優としての側面の検討なども領域を広げていて面白かっただけに、序論のように方法論自体が間違っていると批判する前に、通史的な把握と個別事象の分析という方法論の更なる徹底の方がむしろ発展段階として必要ではないかと思わされる。

 第7章、同じく夏葉氏による堀江由衣田村ゆかり論は、両者の共演と関係性自体をも論じている辺りに工夫があると言えるだろう。

 第8章の遊井氏による水樹奈々高山みなみとの比較は歌手としての側面を重視しているけれども、おそらくこの章の最大のツッコミどころは、気高さとちょっとだけ大人であるということという対比、そして「歴史に咲いた二輪の花」という副題にもかかわらず、『ハートキャッチプリキュア』を黙殺してみせたという点にあるのではないか。非プリキュアファンの評者は手の込んだ芸とお見受けしたけれども、各作品の熱心なファンからするとこういった醒めた視点というものはどう見えるのだろうか。

 最9章の町口氏の釘宮理恵論は、作品論及びアニメ文化史論にかなり越境して釘宮のツンデレ役を分析している論考ではあるけれども、むしろアニメ史上に声優を位置付けるということ、声優からアニメ史・文化史の論点を導くことの難しさを感じさせられる内容ではないか。

 第10章で夏葉氏は再び2人の声優の共演自体を論点としている。名塚佳織井口裕香との対比・比較の分析を通じて、氏は演技の更に先の、同一の声優が出演している作品同士での両者の役割の相違から、演出や配役と言ったいわばメタな領域に踏み込んでみせる。
 これは声優をどのように起用し演出するかという、本来ならば音響監督論なり演出論なりとして声優論の一部門を形成するであろう点を視野に入れた論考と言える。今後の声優論には、例えば斯波重治論なり声優起用に関する宮崎駿論や富野論があっても良いのでは、と感じさせられる視点であろう。

第11章、遊井氏の沢城みゆき論は、まず前提として2010年代に声優の声に接する場の拡大、という論点を提示しており、評者としては前述の不十分と感じた領域をこういう感じで広げて欲しかった、と思うような部分となっている。本章などは、女性声優達を論じた評論集の一部としてではなく、声優史の一事例研究として適した観点ではないだろうか。ただしこれも欲を言えば、「2006年以後」という規定の意味は掘り下げて欲しいところでもあり。

第12章、町口氏による平野綾論は、結局哲学的声の考察よりも平野の個人史の分析という方が、つまるところ評論としては読めるのではないだろうか。個人ないし複数の女性声優を章ごとに構成している割に、ちゃんとデビューからの全過程を俯瞰した論考が意外に少ないということの反映でもあるのだけれど。

第13章、小森氏の広橋涼中原麻衣論を読むと、結局あの声優のあの作品での演技はすごかった、という紹介的評論の更に先を論じるのはなかなか難しい、ということが小森氏自身はもちろんそれに気づきつつ評論を試みているだろうだけに、却って浮き彫りになっている格好。主人公が成長するストーリーに合致するか否かという辺りは、成長物を巡る作品論も絡めて論じられそうな論点ではあるのだけれど。

第14章、喜多村英梨論で夏葉氏の展開している議論は、およそ声の現象学的把握とは程遠い、子役から声優・歌手への移行なり事務所の移籍なりを踏まえて演技の比較を行っている。そして演技自体の比較よりも、こうした視点を加えた方がやはり面白いのではという感想を抱いてしまう。声優事務所論というのも、本来声優論の中には当然存在するであろう領域だろうし、声優の個人史における経験として、声優になるまでの過程というのも十分分析対象だろうと思うし、声優と声優も務める俳優等との比較というのもやはり本来は論点の1つだろうと思わされる。

第15章の花澤香菜論で町口氏は再度声を巡る哲学的な議論を展開しているけれども、それが具体的な花澤論においてどこまでつながっているかは、ちょっと未知数ではなかろうかと評者は思ってしまう。作品の意味の分析はなかなか興味深いのだけれど、それって別に声優論抜きの作品論でも展開できないのかな、とは感じてしまう訳で。

第16章の小森氏の論考がどうにも惜しいというか勿体なく感じられたのは、ほぼ空気系作品への適応性という議論に落ち着いてしまったようにも読める井上麻里奈論の冒頭で、井上の絵達者ぶりと演技を結びつけられないかと提示しながら、それが不可能だったとしている点。他の分野で文化の担い手を論じる際に趣味や余技まで踏まえての分析が少なくない中で、声優を声の演技以外の趣味・余技まで含めて分析するというのも1つの方法ではないだろうか。本来声優論の一分野としてラジオパーソナリティ論が取り上げられれば、ラジオ等で発信される声優の個人的な側面がそう声優活動と関係しているかというのは論点になりそうなのだけれど。


第17章、小森氏の悠木碧論は2010年代の代表作とされる『魔法少女まどかマギカ』のヒロイン役という、直球ど真ん中の主題を敢えて取り上げたという点では本来本書の肝となるはずの章なのだろうけれども、個人的には面白い面白くない以前に、声とは何か声優とは何か演技力とは何か役へのはまり具合とは何かという、声優論の根幹に辿り着くためにはどういう学問的な考察が必要なのか、という論点を改めて考えるということの困難さ、声優論の「読者」としてもちょっと途方に暮れた。これはやはり当方も本書を批判しておいて大衆文化論なり文化史なりについてはまだまだ、ということではあるけれども。

第18章、同じく小森氏の阿澄佳奈論。現象学的に聖と魔の二面性を明らかにするという方法論が評者には良く分からないという点はさておくと、少年から老人から動物から何から演じるという辺りはやはり外見から拘束される俳優との大きな違いとなる訳で、その辺り体系的に論じるとどうなるんだろうとは。

第19章、スフィア論かつ夏葉氏による声優ユニット論。ユニットを論じる中で、声優とは本来個であるという明快な規定に至っている辺りが面白かった。個人的には、私的なつながりからのユニットだろうと思い込んでいた氷上恭子増田ゆき小島幸子の3人組が完全な事務所主導型の、いわば「仕事」で結成されたユニットだったという辺りが、成程副題通り「声優ユニットの謎」であった。結局こういう個別事情・事例研究の積み重ねの方がまだまだ必要なのでは、とも感じる辺りで。

第20章、深水黎一郎氏の「艦これ声優論」は、声楽的に『艦隊これくしょん』声優の艦ごとの演じ分けを分析し、結論としてはそういった女性声優の多彩な演技を幅広く楽しめる同作品を、かなりストレートに肯定し、そして日本の声優全体を賛美するという内容。
 ただこれに対して評者としては、一人が複数の役を演じられる程日本の声優のレベルが上がったという主張は、声優は兼役も十分出来るのだから1人の声優が複数役を演じてね、という「合理化」に与することにはならないのかなあ、と不安も感じるところ。
 ただでさえ待遇の問題があるところにそういった賛美はやや単純ではないかなあと感じるのは、1980年代から1990年代にかけての男性声優版の声優総覧たる『銀河英雄伝説』が、銀河声優伝説とまで言われたほど主役級総動員かつ1人1役の配役に徹したということと比べたくなるからだろう。声優の専門性の確立と今後の発展とに、『艦隊これくしょん』の声優事情が示しているのは可能性と同時に敢えて言えば懸念ではなかろうか、と評者は感じさせられた。



 結局長々と記してきて言えることは何かとなれば、評者としては『声優論』以前に、或いは少なくとも並行して『声優史』が必要であるだろうと考えるし、一人の読者として今後『声優史』を誰かが書いてくれることを期待したい、ということにどうも尽きるようだ。本書よりも史的分析なり通史的な把握なりを発展させて、例えば夏葉氏などが声優の歴史に関する書籍を執筆すれば面白いのではなかろうか、とやや無責任な編集者的感想を記して、ひとまずこの冗長な稿を終えることとしたい。