はてなブックマーク別館 第四回 従軍慰安婦とアメリカの歴史教科書を巡って

この記事は、以下の3つの記事での議論への再応答です。

http://d.hatena.ne.jp/shigak19/20150311/1426000131

http://d.hatena.ne.jp/shigak19/20150328/1427521543

http://d.hatena.ne.jp/shigak19/20150510/1431259199

色々書いておられますが、要は
「安倍やその回し者の官僚なのだから批判の内容も不適切に決まっている」
ということなのですね?

まあその仮説を認めればあなたのお説も筋は通っているということになりますが、結局それは
「安倍は悪い奴だ、だから安倍の言っていることも不適切だ」
「安倍は不適切なことを言っている、だから安倍は悪い奴だ」
という自家撞着ではないでしょうか。

要するにこれは、
「安倍といえども正しいことをする『こともある』」
という命題を認めるか否かという、属人的な好悪の問題でしかないですよね。で、この命題を認めないと「安倍支持者」という「人民の敵」のレッテルを張られてしまうと。

いや、実際安倍に対して「二分間憎悪」をすることを日課にしておられる方々は上記の自家撞着に陥って安倍に対する憎悪を自ら増幅させ、安倍を悪魔のごとくに言い立てておられる方が非常に多く目立つわけで、そして私はそういう方々こそが戦時中に「暴支庸懲」だの「鬼畜米英」だのと言っていたに違いないと思うのですがね。

そういうわけで、私はそういう正義の味方のみなさまに辟易しているからこそ、敢えてそういう方々のおっしゃることに冷や水をぶっかけるような物言いを好んでしているという面はあります。そこだけを取り上げて読めば、私が安倍シンパであるかのように読めてしまうのはまあ事実でしょう。しかし実際問題としては、私は箸が転げても安倍が憎い、情緒的なだけの「暴安倍庸懲」「鬼畜安倍」派がインテリ面する風潮が嫌いなだけです。

えーと、コメントのこの冒頭部を読んでから、私は実に様々な感情を表すことになりました。

まず大笑いしました。ここまで議論してきてこんな発言を大真面目に出来る人間が居るだろうかと。これはとんだオチだと。

次に激怒しました。私があれだけ書いたことを、実はid:Day-Bee-Toe氏は一文字も読んでいない大変に不誠実な人間なのではないか、あるいは私と他の誰かの記事を混同するくらいそそっかしい人間なのではないか。議論の内容以前に、議論自体に対する姿勢に疑問符を付けざるを得ないということに、さすがに当方は無感情ではいられません。

最後に幾分頭を抱えて、苦い想いを味わいました。これ程他者への思考の伝達が困難なのか、議論というものは難しいのか。どうすれば人文科学なりその他の分野の教育の中で、そういった領域を豊かにしていけるのだろうか。

…まあ取りあえず求められた問いに回答致しましょうか。


全く違います。

仮にあなたのおっしゃるような議論を当方がしているとしたら、

「安倍や官僚たちの慰安婦に関する言動は間違っている!」

とあなたに対して1行記して、それで終わりだったでしょう。



今回の議論は、

「安倍や官僚たちの慰安婦に関する言動は正しい。歴史学者たちは間違っている」

えっ、これまで散々誤りも犯しているのに。
あなたは安倍支持者なのですか。

「私は安倍支持者じゃないけれど、安倍や官僚たちの慰安婦に関する言動が、常に間違っている訳ではないだろう」

まあそうですね。

「今回の安倍や官僚たちの言動は正しいんだよ。歴史学者たちの方が間違っているんだ」

えっ、いやどうして今回は正当だと言えるんですか。
今回も結構不当な部分が入っていると、
産経の報道や首相たち自身の発言からは考えざるを得ないんですが、
何か根拠があるんですか。

「君は結局安倍や官僚たちが憎いから、彼らの言動が不当だと言いたいのだろう。
 安倍や官僚たちの言動には不当な部分もあるが、今回は正当なんだ。
 そんな善悪二分論に囚われた安倍批判派が私は大嫌いだ。」←今ココ

こういう流れだった訳です。


いや実に驚くべき議論ですね。
「今回の安倍と官僚たちの議論が正当である」という根拠を挙げた説明を、
全くしておられないのですから。

で、その部分について今回更に説明をして下さるかと思えば、以下のようにコメントは続いています。

上記の通り、憶測を元に人を非難すべきではないと私は考えております。安倍の穏当な発言を集めれば先日の「人身売買」のように、まあ妥当なものも多いわけです。靖国参拝のような愚行もあるのも同時に確かですが。
もう少しだけ補足します。安倍個人の信条についていえば疑わしい点が多いのは確かでしょう。しかし、首相としての安倍の公式な言動は問題の多いものから穏当なものまで境界線上を揺れ動いているというのがこれまでの実績です。となれば、安倍率いる日本政府の言動が妥当か否かは予断を持つべきではありません。

重ねて主張いたします。私は今回の政府の一連の教科書批判は、「虐殺」等に限定されておらず慰安婦に関する強制性一般を否定せんとする反論であると判断いたしておりますので、その部分については不当と考えますので、こうして批判を加えており、その不当な部分に対してのアメリカの歴史学者たちの再批判は許容されるのではないかと考えます。

そうであろうとなかろうと、史実記述に誤りがあるとの指摘は確実に出ていたわけで(この点について、大沼氏や秦氏などが藤岡氏や西尾氏のような連中と共闘してしまったのは「愚行」であるのは確かだし、その点は私も当初から指摘していましたが→http://twitter.com/DayBeeToe/status/578208951143006208)、それにもかかわらず教科書の出版元や執筆者がその点に関してダンマリを決め込んで「言論弾圧だ」などという大袈裟な反応に出たことは「不誠実」としか言いようがないですね。その点は紛れもなく、STAP細胞捏造が発覚してからの理研上層部と同等の不誠実といえます。組織や業界の防衛のために自分たちの落ち度に目をつぶったのです。
その点、最近の研究者たちの声明については、日本以外の各国の責任を棚に上げているなどの点で大きな偽善を感じるものの、教科書の記述に史実として定かでないことがあったことを認めている点は評価されるべきと思いますが、これはあってはならない方向への変化でなかったとあなたはおっしゃるのでしょうかね。

「予断を持つべきではない」としながら、
自らは何の根拠も無しに「今回の首相以下の言動は正当・穏当」という点は一切疑わないという「予断」でもお持ちなのでしょうか。

で何時の間にか抗議を「史実記述に誤り」という風に、抗議がさも正当な主張に限定されているかのように、相変わらず根拠を記していない点はまあさておいて。

反論としては2点です。

まず第一に、他国政府自らが外務省と在外公館を通して行った行ってきた抗議が、学問の自由・言論の自由に対する干渉と見なされることを否定した議論だと思います。ただの一読者でも一新聞でもなく、日本という一国の政府が公式に、国家権力の行使として行ったということを軽視し過ぎです。

政府が歴史教科書の記述について意見を発するということは、ある特定の歴史的な解釈を政治権力によって強制する、と捉えられても致し方ないからこそ、アメリカの歴史学者たちは「言論弾圧」として反発した訳で、それを「不誠実」と捉える方こそ不誠実です。

この辺りのことは、家永教科書裁判以来、歴史学と政治との関係の中での、ごくごく基本的な姿勢だと当方なんぞは考えておりましたけれども(例えば遠山茂樹歴史学から歴史教育へ』国土社岩崎書店、1980年等)。

だからこそ私は前回・前々回と、それ程までに政府の抗議は不当な部分を有さない「正当」な、例外的な措置だったのかと問いただした訳ですけれども、はたしてご理解いただいていたのか、今回のコメントを読んで怪しくなってきました。

第2に、STAP細胞云々の部分は、何時の間にかアメリカの歴史学者たちが殊更自らの誤りを無視し、学問の基本を踏みにじったことにして、理研と重ねて議論を進めており、これは言い過ぎだろうと考えます。

ちょっと事実関係の確認を致したいのですが、「最近の研究者たちの声明については、日本以外の各国の責任を棚に上げているなどの点で大きな偽善を感じるものの、教科書の記述に史実として定かでないことがあったことを認めている点は評価されるべきと思いますが」で言及される「声明」って具体的にどれでしょうかね。

で前項でも記しましたが、政府による圧力に対し一切反論しないという訳にもいかないと考えざるを得ない以上、問題は「部分的な誤り」がありながらそういった反論をすることが「不誠実」か否かですね。

ここは若干議論の難しいところで、私個人としても敗戦前後の「虐殺」の部分は「遺棄」の方が良いだろうなあ、とは考えてはおりますが、じゃあこの記述がSTAP細胞並みにアウトの、例えば執筆者の学位を剥奪して学界から追放する程の誤りだというのはどうしてそう言えるのでしょうか。

ここでも前項の問題と共通することが言えるのではないでしょうか。「落ち度」を批判するのは学界の、研究上での議論によるべきであって、それが政治権力によってなされるべきではないと。

この点も遠山茂樹以来の議論かと思いますが、学説対立は研究上無数に存在いたしますが、それは研究者同士の間で行われるべきもので、政治権力が徒に学説対立に介入し特定の学説を支えるのは、望ましいことではない訳です。

まずは研究者相互の批判によって行われるべきところに、いきなり政府からの批判が来たので、それについては批判し訂正にも応じない、というのは、学問の基本を踏みにじっていない、むしろ妥当な態度だろうと思います。別に歴史学者たちは学問の基本に則った批判に対してまで応じないと主張している訳ではないでしょうに。

この辺りの議論については、id:Apemanさんの感想を前々回に続いて想起いたしますね(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20150323/p1)。

敗戦前後の「虐殺」は記述として確かに妥当とは言いかねますが、これはやはり訂正すれば通用するレベルの記述だろうと思います。そして歴史学者たちが歴史研究の進展に応じて、不断に自ら歴史を書き換えていく、という学問の基本にそって、研究者である執筆者自身が己の学問的良心から記述を書き換える、というのがあるべき姿勢かと考えます。

繰り返しですが、敗戦前後の「遺棄」は史実ですし、id:scopedogさんが紹介されているような証言等からしても、時期を問わないならば「虐殺」がSTAP細胞レベルの「捏造」とはちょっと考えにくいところです。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20150513/1431538564
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20150323/1427042397


それから、id:Day-Bee-Toe氏のマグロウヒル教科書とその執筆者に対する見解は、随分揺れ動いているように見えるのですが。

http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/www.jiji.com/jc/c?k=2015021000507

「で、まあ例によってはてな民は件の教科書が本当にひどいものであることも調べずに欧米様の鰯の頭を拝んでいるわけで。」

http://d.hatena.ne.jp/shigak19/20150311/1426000131のコメント欄

「何を誤解されているのかわかりませんが、私自身マグロウヒル社の教科書については『完全無欠とは当方も考えておりませんけれども、こちらが訂正を重ねていくことでより「史実」に寄り添っていく余地がまだ可能と思われるレベル』だと考えています。」

で、今回のSTAP細胞・「不誠実」云々ですね。さて。

定量的に書かれていないので水掛け論でしかありませんが、少なくともあの教科書を素直に読解すれば1)-3)が「20万人」のうちの大半を占める、と読めます。それこそ入れ替わりがあったなんて触れられていないわけで。この件が政治問題化されていることを知りながら、日本の悪業に過大な印象を与える誤読を放置することには無知でなければ悪意を感じます。

えーと執筆者が子どもたちにしっかり入れ替えまで伝わるように記述せよ、という主張は教育上できなくはないでしょうが、「誤読」による政治的影響まで考えなければ「悪意」って凄い発想ですねとしか。

知りません。それは別の問題ですし、その状況は少なくともネオナチを現状より一歩後退させたということです。「事実を認める」というのは一部に過ぎないとしても「前提」であるということです。件の教科書を巡る議論ではその「前提」をこともあろうに歴史学者の側が投げ捨てて開き直ったのです。

史実と解釈・問題意識を殊更に峻別しようとすると、後者を用いて前提である前者をも損なうレベルの発想にはどう対応するんでしょうね、という反論だったのですが。
そのレベルで「一歩前進」と判断するとは思いませんでしたね。ほぼ「事実」まで書き換えるレベルの変更で、それこそ「前提」を破壊するような議論でしょうに。