書房日記別館 第三回 従軍慰安婦とアメリカの歴史教科書を巡って

この記事は、以下の2つの記事での議論への再応答です。

http://d.hatena.ne.jp/shigak19/20150311/1426000131
http://d.hatena.ne.jp/shigak19/20150328/1427521543

前々回、前回は応答までに間が空いてしまったので、今回は1つ完成度よりも応答することの方を重視して、すぐ執筆することと致しましょう。

「正当な部分」に対して再批判することは不誠実ですし、「不当な部分」には当然再批判すべきでしょう。それだけのこと。

お、ここはようやく認めて頂けましたか。
ただそう主張されるのならば、たった「それだけのこと」も踏まえずに、アメリカの歴史学者たちを「量的にはともかく質的にはSTAP細胞の捏造をやらかした人」扱いして、彼らの再批判を一切認めないあなたは一体何を主張したいのでしょうね。

あなたはただひたすらに、安倍首相以下日本政府の教科書への批判は「20万人近い」慰安婦の「虐殺」に対する批判であるから正当で、この正当な批判に再批判したアメリカの歴史学者たちは学問を踏みにじっていると主張されています。

が、日本政府の教科書への批判はその部分に限定されているという根拠は何ですか、と前回既に当方は疑問を提示しております。
産経の報道等によれば、むしろ批判には慰安婦の「強制徴集」自体への反論が含まれているのが妥当ではないか、首相や稲田自民党政調会長による国会質疑でもそういった見解が示されているじゃないか、一体日本政府の抗議がその部分に限定されていて「正当」である根拠はなんですか。


…と前回の記事で問いかけたのに、何とゼロ回答というのは驚きです。
当方を「属人的」と批判されたid:Day-Bee-Toe氏の方こそ、一体なぜ今回の安倍首相以下政府の対応を「正当」だと主張されるのか、根拠を挙げ説得的に主張されるべきで、それを怠って政府をひたすらに支持するようでは、とても「是々非々」とは申せますまい。


重ねて主張いたします。私は今回の政府の一連の教科書批判は、「虐殺」等に限定されておらず慰安婦に関する強制性一般を否定せんとする反論であると判断いたしておりますので、その部分については不当と考えますので、こうして批判を加えており、その不当な部分に対してのアメリカの歴史学者たちの再批判は許容されるのではないかと考えます。

この立場は発端のブックマーク以来不変ですし、これだけ議論を重ねてもそちらが政府の批判が「正当」でありアメリカの歴史学者たちが「不当」であるという説得的な主張をなさらないからこそ、私はその立場を変えようがないのであります。

私がこれだけ時間をかけてあれこれと文を書き連ねているのに、どうして私が100%安倍不支持、100%米歴史学者支持の「属人的」人間などと決めつけられねばならないのでしょうか。
私はかなり相対的な立場から議論を行ってまいりました。安倍首相以下政府の教科書への批判が、「虐殺」の部分だけだとid:Day-Bee-Toe氏が早期に立証下さっておれば、私は実に「属人的」にid:Day-Bee-Toe氏の立場を支持したことでしょう。

ところが皮肉なことに、当方を「属人的」だと非難されるid:Day-Bee-Toe氏自身がロクに根拠も示さず実に「属人的」に政府の正当性を主張されているからこそ、こうして議論が続いていると言わざるを得ないのです。

そもそも吉見氏の研究の主な部分は1990年代になされていたと私は理解していますが、そこから20年以上何の進歩もなかったとしたらそれは学界の怠慢ですよ。

えーと私はid:Day-Bee-Toe氏と違って自分が明言しなかったことを勝手に勘違いして批判された時も「自分はそんなことを言っていない、批判する方が悪い」という態度は取りませんので反論いたしますと、吉見氏自身も含めてここ20年学界においても様々な研究成果が蓄積されている、と理解しております。
したがってここ20年何の進歩もないから吉見氏の成果を挙げている、などということではないという点は明言いたします。


でじゃあなぜ吉見氏にここまでこだわるかというと、もう20年前の研究成果として定説・研究史に位置づけられるような研究成果に、今になって不当な批判を加えるという再批判されて当然の、一体何周遅れなんだと呆れられても仕方のない反論をする政治家が少なくないという現状があるからです。


で今回の政府の「不当」なところはまさに、今更吉見説以来学界で定着している慰安婦の強制性一般をも批判しているというところにあります(散々言っておりますが、当方のこの解釈に関して批判したければどんどん根拠を挙げて批判して下さいと前回申し上げたにもかかわらずid:Day-Bee-Toe氏は何らこの点について応答されておりません)。


一例として吉見氏の名を挙げているにすぎない云々は、なぜアメリカの歴史学者たちがこうして再批判を加えてきたか、それは吉見氏の研究成果のようなこれまでの歴史学の研究の蓄積自体を政府が否定してきたと彼らが解釈したからであるという側面を無視した、矮小化に過ぎないように感じられてなりません。

それに、問題とされている記述(20万人だの虐殺云々だの)について、吉見氏がそれと一致するようなことを述べていたなどと私は寡聞にして知りませんが。逆に、吉見氏の説であってもなくても、とにかく学界の定説が件の教科書の記述と一致するのであれば私はこの件でこれまでに述べたこと全部取り下げても構いませんよ。しかしそんな話は誰からも出てきませんね。

私が言っているのは定量的な問題です。件の教科書の記述だと、"Others were killed by Japanese soldiers" と書いてあるので、その時点で戦死傷しなかった者の大半は殺された、と読めますよ。一人や二人じゃなく。そして "soldiers massacred large numbers of comfort women" と書かれている時点で、これも一人や二人なんて話じゃないでしょう。結局、全体が「20万人」なら万単位の組織的な虐殺があったと読まざるを得ません。で、そんなことを吉見氏が主張していましたか?

えーと当方を「属人的」と主張されるあなたには読み取れなかったのかもしれませんが、私は一度も教科書の記述自体を絶対視していませんし、例えば吉見氏自身が教科書記述を批判して一部の書き換えを要求したって構わないと考えますし、更にその吉見氏の書き換えた版に日米問わず研究者が再批判して書き換えたって何ら問題はないという立場なので、こういう反論こそあなたのお嫌いな「安倍批判派」のやる「藁人形叩き」という奴ではないでしょうかね。

https://ja-jp.facebook.com/nobukatsu.fujioka/posts/730173300401780

歴史学者たちに最も批判的な1人である、藤岡信勝のソースを使うというのはちょっと当方にとってはつらいところですが、ブックマークでのやりとり以来申し上げていますけれども、彼のソースと比較してもid:Day-Bee-Toe氏の解釈は無理があるのではと感じております。

教科書本文の順番で言及されている慰安婦たちの経験を記述しますと、

1)戦闘に巻き込まれた戦死傷者
2)他の慰安婦達、特に逃亡者や性病罹病者として殺害された者
3)敗戦前後に「虐殺」されたもの
4)生還したが、戦後も悲惨な経験から慰安も平和も訪れなかった者

いや1)以外の大部分が2)に当たるって読解は、3)で敗戦前後に「虐殺」されるまでは生存した慰安婦がそれこそかなりの数居たっていう構成なのに、2)と3)でそれぞれ多数殺害されたという読解は良くわかりません。一体id:Day-Bee-Toe氏の「読まざるを得」ないという理解では、1)から4)それぞれにどれぐらいの人数が居るという理解なのでしょうか。

20万人が同時に慰安婦であったなどとは考えないと思うのですよ。

私の言っていないことに反論されても困ります。


これ、今回一番驚いた点だったと言っても良い箇所です。そう、あなたが全く言っていないことが、あなたの言っていることと大いに矛盾するんじゃないかと思ってこちらも敢えて反論しているんですよ。

吉見・秦両氏の見解は大いに異なっているというのはもはや言うまでもないのですが、2人の間では「交代率」を巡って論争になっている、というのは前回申し上げた通りです。で、その交代率を秦氏は低く取って慰安婦の総数を少なめに見積もり、吉見氏は秦氏よりも交代が多かったと見て慰安婦の総数を低めに見積もることを批判していた訳です。

でまあ、両者とも前提としているのは、慰安婦数というのは日中戦争期から敗戦までの総計であり、その間慰安婦の入れ替わりがあっただろう、という事実ですね。

従ってこの教科書には明示されていませんが、4)の生還した慰安婦の中にも、敗戦まで慰安婦であった人と、日中戦争期あるいは太平洋戦争期のある時点で慰安婦でなくなった人とが居る、というのはもはや前提だろうと思います。

で、この辺りの経緯を前提とすると、さすがに日中戦争期の間に慰安婦が入れ替わっていなかったなどというのは「事実」に反するでしょうから、4)がある程度想定されるのではありませんか、というのが前回の反論だったわけです。

よもやお忘れとは思いませんが、id:Day-Bee-Toe氏は当初ブックマークで「20万人虐殺」と申されておりましたが、これはまあブックマークの字数制限で正確ではなかったという反論もあり得るでしょうが、でその後の「20万人近く」が「虐殺」されたという表現と、この辺りの「事実」について、納得できるご説明はないのかしら、と思った次第です。

で、私は前回以下のように書いておりますが、まあここはそのまま今回も反論として挙げておきます。

私は敗戦前後の「虐殺」は遺棄と書き換えた方が良い、という点ではなるほど敗戦前後の虐殺否定という1点だけではあなたと同じ立場なのですが、あなたが教科書の原文読解を無視して徒に「大部分が虐殺されたと教科書には書かれている」と主張されるから、そこで訳が分からなくなるんですよ。ましてや、発端のブックマークでは「20万人が」更には「20万人近くが」とおっしゃられるし。

そもそも吉見説にせよ、秦郁彦説にせよ、多少従軍慰安婦について知っている人間ならば、彼らが慰安婦数の集計の時に「交代率」を巡っても論争があったことを知っているので、20万人が同時に慰安婦であったなどとは考えないと思うのですよ。その時点で、隠し球のように塁を出た時点でアウトになってはいないかと思ってしまいますが。

さて、最後に「史実」に関する理解ですが。

史実の正確な認識に人権侵害という問題意識が反映されていないなどということがあるのだろうか、人権侵害への問題意識を欠いた「史実の正確な認識」にはたしてどれ程の意味があるだろうか、とは感じるところです。

誰が言おうと2+2は4なのですよ。それが安倍であろうとヒトラーであろうとね。「史実」なり「事実」というのは問題意識とかそういったものとは別のものです。

えーと仮に吉見氏が言おうと、慰安婦の強制的な徴集は無かったなどという主張は私には1+1を0にしようとする主張にしか読めませんし、安倍首相が慰安婦の強制的な徴集自体を否定せずに、「虐殺」の部分だけに疑義を提示したならば、2+2として捉えることも出来たかもしれませんね。

で重ねて申し上げますが、安倍首相以下の示している数式は明らかに、2+2=4などという明確な史実への言及ではないと思われますので、安倍首相以下が「史実」しか語っていないとおっしゃるのでしたら根拠をさっさとお挙げになればよろしいかと存じますけれども。

後段については、別に「属人的」にではなく、そのように史実や事実を問題意識や歴史理論と切り離して捉える発想は、史学史的には19世紀の近代国家における歴史学の類型として考えられる、というのが歴史学界における一般的な理解であるはずだと、私などは考えておりましたし、その点に関しては歴史学界の理解を肯定するものであります。二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』木鐸社平凡社ライブラリーなどをご参照ください。


あなたの御議論に基づきますと、例えばネオナチが多くのユダヤ人の死という「事実」自体は認めたうえで、その死という「事実」はシオニズムユダヤ資本による世界支配自身による犠牲であったという陰謀論的「問題意識」で歴史学を攻撃してきたらどう対応されるのでしょうね、などと感じるところではあります。

現代歴史学は、ユダヤ人の死とその死がナチズムによるという問題意識とを切り離さずにホロコーストを「事実」「史実」として記述しているはずなのですけれども。