F・W・クロフツ『樽』

F・W・クロフツ 大久保康雄訳『樽』創元推理文庫、1965年

個人的には「名探偵の推理」に頼り過ぎない、取り立てて社会と隔絶した場も設定されずに捜査過程を淡々と追っていく作風は結構好きで、第一次世界大戦前のロンドン・パリに跨る捜査行も面白かったと思う。

以下で紹介されているように、多数の翻訳版が出版されており、日本の推理小説界に与えた影響も大きいという。

http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/yotsuya151/archives/18691707.html

創元推理文庫でも、新訳版が出ているけれど、この旧訳版もそこまで読みにくいということはないと思った。

ただし、もともとが微に入り細に入り、淡々と経過を書く平板な構成という面もあるし、冒頭部の樽の追跡行辺りは正直それ程熱を入れて読めなかったところもあった。第二部のパリでの捜査辺りまで読み進めれば、後はどんどん読める。

上地隆蔵『新手への挑戦 佐藤康光小伝』

  • 上地隆蔵『新手への挑戦 佐藤康光小伝』NHK出版、2009年

 団鬼六編『将棋 日本の名随筆 別巻8』作品社、1991年と後藤元気編『将棋エッセイコレクション』ちくま文庫、2014年という2つの将棋随筆選集を手に取ると、前者は主に大山升田や中原米長までの世代を中心にしているからやむを得ないとはいえ、後者においてさえ羽生善治と羽生世代に関する文章というのは、存外収録されていないことに気付く。

羽生は別格とすると、それに次ぐ佐藤康光森内俊之の2人について取り上げた著作としてすぐに思い浮かぶのは島朗『純粋なるもの』河出書房新社、1996年(新潮文庫、1999年)ということになる。これは島研主宰者としての島ならではの、私小説的な物語として現在でもなお面白い読み物だけれども、もう少し離れた位置から、2000年代ぐらいまでの両者の変遷をカバーした企画として、NHK出版がこの2人の小伝を相次いで刊行していることは評価したい。

ただし、中身については、ほぼ聞き書きなのは理解できるとしても、「小伝」とはいえ一気に話がタイトル戦からタイトル戦へ数年飛んでしまうのは、ちょっと勿体ない読後感が残った。

むしろ充実しているのは、幼年時代や私生活であり、佐藤康光の場合は、結婚に至る過程とその後の家庭生活というなかなか単発の雑誌インタビューではカバーできない領域が結構突っ込んで記述されている。

雑誌連載記事を基にした前半に加えて、後半には自戦記が収録されているが、その代わりに伝記らしい附録がほとんどないのも痛い。最低限年譜は欲しいし、出来れば将棋棋士の伝記らしく、全対局の星取り一覧表が巻末についていれば、それだけで私などは多分言うことなしだったのではないかと感じてしまう。

菅谷明子『未来をつくる図書館』

  • 菅谷明子『未来をつくる図書館』岩波新書、2003年

 ジャーナリストである著者が、図書館司書でも図書館学の研究者でもなく一人の利用者として、ニューヨークの図書館で受けた新鮮な印象を大きな原点として編み出されている。
 著者の経験を踏まえた、ニューヨーク公共図書館に関する簡にして要を得たレポートとなっている。

 2003年に刊行されているが、データベース等の電子資料の利用についても記述しており、それ程古さは感じない。

 本書を読むと、アメリカ社会を背景として図書館が成り立ち、アメリカ社会に図書館が貢献し、アメリカの市民が図書館と接しているということが良く伝わってくる。
 例えば本書で触れられる、図書館での学びをばねに成功した企業家からの寄付や、企業からの多額の寄付などは、いかにもアメリカ社会らしい寄付の文化に基づいた図書館の資金調達事情と言えそうだ。日本のように、図書館で利益をあげようとしたり、本来企業自身も相応に負担するはずの人材育成や研究開発の為の資金を文化行政に丸投げしようとしたりする傾向とは、一線を画している様子が覗える。
 ツタヤ図書館の事例など、日本で進行する公共図書館の民間委託を論じる際に、本書の取り上げた多彩なサービスのみに注目し、そういったサービスを展開するという美点を強調するのは、本書が的確に伝えているアメリカ型の図書館運営の実情を無視した片手落ちとなりかねない。とりわけ最終的には図書館には一定の経費が必要であることを前提とし、その投資によって将来の無形の資産を形成することこそを図書館の目標とする経営戦略は、果たしてどこまで民間委託・民間資本導入論の中に取り入れられていると言えるだろうか。

 本書は優れたレポートであるとは感じるけれども、他方でアメリカの先進的情報サービス図書館対日本の旧来型貸出中心主義図書館という対比は、たとえ現状として日本にそういった図書館が多いとしても、敢えて言えば一面的に過ぎる評価ではないかと考えざるをえない。
 中小レポート以来の日本の公共図書館の経験の内最良のものとして前川恒雄と日野市立図書館の事例を念頭に置くと、貸出を中心とした図書館サービスの変革と同時に、児童サービスの重視や市政情報室の設置による地域・行政関連の情報サービスの展開等も行われていた訳だが、そういった日本における経験と著者自身・そしてニューヨークの経験とがほとんど交差せずに、引き裂かれてしまっているのではないだろうか。
 この日米比較の図式化は、一方では本書を生き生きとし論旨の明快なレポートとする活力を生んでいることも否定できないのだけれども、本書の報告を日本の公共図書館論議の中に活かす際の弊害となっているようにも感じられてならない。読者自身の方で本書と日本の公共図書館史に関する著作とを併読する必要があるのは残念だ。

 ともあれ本書はアメリカ・ニューヨークの図書館という1つの経験の姿を伝えてくれたのであり、今後これに続いて日本のローカルな場の、そして世界のグローバルな場の図書館のレポートが出されていくことを期待したくなる。
 

岡部ださく『世界の駄っ作機』

筆名岡部ださく、こと岡部いさくによる「世界の駄っ作機」シリーズの初巻。
しかしプラモデルさえろくにない機体の紹介をシリーズ化したモデルグラフィックス誌も大したものと言うか、初期の読者から実在しない機体も含まれていると誤解されるのもさもありなんというところである。

その辺りを逆手に取った特別企画も掲載されているけれど、そこで登場するモデラーの「二宮茂樹」氏って、『ストラトス・フォー』の特典で御馴染の二宮茂幸さんのことだろうか。杉山潔プロデュ―サーと出会う前からこちらはつながりがあったということになるけれど、まあ外国機の模型に関わるお仕事となると相当に狭い世界のはずだろうから何となく納得してしまう。

初期だけあって題材が充実している。例えばデファイラントのように後の連載になると駄作機界の大物扱いされているような機体についてもしっかり取り上げられているのは、当方のような非マニアには有難いところ。


巻末対談(短いけれど)には宮崎駿も登場している(4号戦車についても語っている)。

大塚信一『理想の出版を求めて 一編集者の回想 1963-2003』

  • 大塚信一『理想の出版を求めて 一編集者の回想 1963-2003』トランスビュー、2006年

 岩波現代文庫や、現代文庫に再録されている物も多い同時代ライブラリーのラインナップを眺めていて、何となく「岩波らしくない」本を見かけることがある。著者は古典教養主義の本流たる岩波書店の中にあって、山口昌男河合隼雄木田元等々の著作を担当し、この「岩波らしくない」潮流を形成した編集者である。

 これでもかと列挙される書名と著者の羅列についていけないという読者も想定されるけれども、一人の編集者がどのくらいの著作と著者を担当しているかということを知ることが出来るし、ことごとく匿名にされてしまっても逸話として全く面白みがないだろうから、これはこれで良しとするべきだろう。


 作家・小説家や漫画家以外の、哲学・社会学文化人類学・芸術等の分野の研究者や評論家の本を担当する編集者について、こういったまとまった記録が出ることは多くないし、個々の本や原稿に関するディレクター的な側面だけではなく、研究会の組織やシリーズ物の企画といったプロデューサー的な側面も取り上げられている点にも特色がある。

 著者は『思想』・岩波新書・単行本や講座・雑誌『へるめす』等々を担当した後、役員を経て岩波書店社長を務めているが、本書では出版社の経営や出版界一般に関する話題は余り取り上げられず、専ら「一編集者」として編集と出版の現場の話が語られており、この点に私は好感を覚えたけれども、表題だけではいささか一般論的な出版論・出版社経営に関する本と見られてしまいそうで、少し勿体ないような気もする。

映画メモ 2015.12-2016.02

・『007 スペクター』

 最近結構過去の作品の要素を詰め込んでいるなあ、とは思うところ。
 2作連続で最後が英国本土、それもロンドンというのはこれまた実は異色なのでは。
 敵が強いんだか間抜けなんだか…『ロシアより愛をこめて』の頃が一番強そうだった、というのはちょっとねえ。
 しかしレイフ・ファインズ演じるMは今作では随分と中間管理職というか前線指揮官となっているというか。『サンダーボール作戦』の時のように、00課総動員とならないのはむしろ不自然で、その内00要員同士の群像劇で1作作ってみても良いような。



・『ブリッジ・オブ・スパイ

 一見して、アベル大佐の派手さ皆無ながらも何とも言えない存在感がとても印象的だったので、舞台畑出身のマーク・ライランスが本作で注目されたというのは大いに納得。主演のトム・ハンクスより年下というのにはさすがに調べて驚いたものです。アカデミー賞助演男優賞にもノミネートされていて、いかにも助演男優賞の趣旨に合うような存在でした。
 にもかかわらず、予告編にもポスターにも一切ライランスが出てこない!というのは、どういう訳か。
 
 スピルバーグ監督の作品としては、長い割に構成がどうも。アベルの裁判からU2号事件、ベルリンの壁建設というのはそれぞれ少しずつ年単位で時期がずれている訳ですが、まるで1年の間に続けて起きたかのような印象を受けておやおやと。『シンドラーのリスト』に比べると、長さがいまいち活きていないような。

 CIAのいかにもいけ好かない感じは1950年代っぽくて良かったのと、最後の最後でドノヴァンが家族との再会ではなく自宅のベッドに突っ伏して寝てるという描写はまあ良かったのでは。

 しかしこの作品にジュースとポップコーンで臨んでスター・ウォ―ズにホットコーヒーを買い込んだ私は相当決定的な手順前後を犯したことに後悔したのだった。



・『スター・ウォーズ フォースの覚醒』

芳しくない評判は周囲からも聞いていたのだけれど、ああこれは確かにやってしまいましたなあと。
せっかくハリソン・フォードキャリー・フィッシャーをウン十年ぶりに起用してこれですかと。
マックス・フォン・シドーが仕事選ばないと言われるのも分かった気がしてしまう…。

別に新シリーズ3部作みたいにCGで登場人物がやたらと多ければ良いって訳でもないし、結局ブラスターの撃ち合いとXウィングの空中戦に徹するというのは、原点回帰でむしろ大歓迎でございますけれど、しかしそれにしたって設定と脚本はどうなっているんだいこれは。

それもダース・ベイダーもどきと帝国軍もどきがデススターもどきを操って、それに反乱同盟軍もどきがXウィングでデススター破壊作戦もどきで挑むって、ちょっともどきが過ぎますって。特に帝国軍もどきの、プロイセン以来のドイツ国防軍第一次世界大戦第三帝国を経てネオナチの私兵集団化したような感じにはうーんと。「新たなる希望」の、ダース・ベイダーの上役を演じたピーター・カッシングのような感じはもう期待出来んのでしょうか。

C-3POとチューイがそれっぽく出てくれたのは、これはもう無条件に肯定せざるを得ないけれど、それにしたってソロとルークのあの扱いもねえ…。

音楽はジョン・ウィリアムズの続投で、これはまあ良いとして、どうぜデススター攻防戦もどきを繰り返したのなら、「王座の間」の勲章授与シーンも再現して「王座の間とエンド・タイトル」でも流してくれていれば…あ、でもそうするとルークのシーンが浮くか…。

今回のウィリアムズのテーマ曲とエンディングの音楽は、結構マーラー交響曲第1番「巨人」の第4楽章辺りを意識したのかなあ、と勝手に素人は感じているのですが、いかがでしょうか。

結局私はエピソード4のデススター攻撃シーンがシリーズ最高だという程度しかこのシリーズには思い入れがないもので、これならば最初からエピソード4を観れば済んでしまいそうだなあという感想はぬぐえませんでした。