稲田義智『絶対に解けない受験世界史:悪問・難問・奇問・出題ミス集』を巡るメモ(四)

稲田義智『大学入試問題問題シリーズ1 絶対に解けない受験世界史:悪問・難問・奇問・出題ミス集』社会評論社、2014年




以下は、問題順に思いついたことをつらつらと(構成を考えられなくなってきた、とも言う)。

10.アメリカ史の怪

19世紀以降の近現代史の方に馴染のある人間からすると、近現代史では妙にアメリカ史関係の問題が多かったように思えてならない(35、38頁他多数)。特に個人的な印象からすると、どうしてアメリカ-キューバ関係でこれだけ微妙な問題が多いのか、という疑問さえ生じてしまう。

著者の提言に、専攻分野のみからの出題という項目があるけれども、既に某所では東南アジア史については適用すると出題自体が減少せざるを得ないという議論が為されていたけれど、アメリカ史やラテンアメリカ史、アフリカ史などの「西洋史」内では相対的に教員が少ない地域にとっては、なかなか厳しい要求ではないか、と思わされるところ。

もう1点アメリカ史関連の問題を読んでいると、いわゆる西洋史アメリカ史を専攻する歴史研究者や、アメリカ経済史やアメリカ政治史といった経済史学・政治史学等の歴史研究を専攻している研究者ではない、社会科学系の研究者が出題したのでは、と感じさせられる問題がいくつかあったのも面白かった点だと思っている(例えば281頁のような)。

11.鬼の「月単位」

近代史や現代史で頻出する月単位での出題については、著者の批判に大いに賛同した。

例えば315頁の、アイゼンハウアーとケネディの代替わり時の米キューバ関係に関する問題は、前項の問題にも当てはまるけれども、ちょっと度が過ぎるように思う。

センター試験は、世界史でも日本史でも、現代史については10年単位で、例えば1960年代に起こったことは何か、という出題を行っているけれども、それがいかに良心的かを証明した格好で、現代史で年号を問うと途端に悪問化している印象(164頁や169頁)。

とりわけ悪質と感じたのは、200頁で取り上げられた太平天国と大院君を月単位で出したという、上智大の問題で、19世紀に関して月単位で覚えさせてどうするのだろうかと。

結局現代史については、良くある20世紀史のムック本のような、年表的事実の羅列を排していく他はないのだと思う。

例えば因果関係に基づく知識を問うのはどうだろう。同じように19世紀で微に入り細を穿つにしても、清がベトナムでフランスと対立していることが、朝鮮に対する清の関与に影響していたことを問うような問題ならば、だいぶ改善されるのではないかという気がしている。

12、学習院国学院

意外に言及されることが少なかったのが学習院国学院で、学習院は難問が中心でそれほどひどい出題ミスもなく、国学院に至っては全く言及されていないのは、ちょっと意外だった。学習院も昔対話体で出題していたことがあったけれども、94頁の某大学の例と違って、結構まっとうな歴史学的な話だったような気がしている。

なお148頁、イギリス商館の部分は正誤表を見るまで全く気付かず、見事にしてやられた感がある。

13.鬼門の地図

著者によって「架空戦記」とまで批判された事例も含めて(113頁)、地図の出題も結構色々と問題が多いのだなあと、これも素直に面白かった点。

いっそ帝国書院辺りで、グーグルアースの歴史版のように、自在に各種の歴史地図を閲覧できるサービスを提供して、それを大学側が入試時に掲載料を払って使用した方が良いんじゃないか、等とは思ったところ。

しかし114頁の「勢力範囲」といい、地図の出題によって背景知識への理解がきっちり問われるのだから、やはり地図の出題は鬼門である。

14.音楽史あれこれ

著者が嘆く美術史以上に悲惨なのは、やはり音楽史だろう。218頁で著者が的確に評しているように、「音楽史軽視」という他ない。
音楽史の致命的なのは、資料集や入試問題に作品の図版を載せるという訳にはいかない点で、この点が美術史以上に状況を悪化させている感がある。英語のようにリスニングテストでも行われれば、また違ってくるのだろうけれど。
もう1つは表題や愛称のない曲は出題のしようがないことで、ドイツ3大Bにバッハ・ベートーヴェンと共に挙げられる程のブラームスが、ロマン主義最大の作曲家の1人にもかかわらず、ワーグナーに比べて明らかに言及されないのは、4つの交響曲と2つのピアノ協奏曲とヴァイオリン協奏曲のいずれもがことごとく愛称なしであることの煽りと言う他ない。以前某資料集が挙げていたビゼーなどよりはるかに演奏機会が現在でも多いにもかかわらず(ビゼーファンの方ごめんなさい)。

218頁で著者が挙げている面子に、せめて後ブラームスチャイコフスキーヴェルディマーラーショスタコーヴィチでも入れられないか、とはつい思ってしまうところである。
とりわけ20世紀の作曲家となると、シェーンベルクが十二音技法の関係で範囲内であるのは良いとして(252頁)、ショスタコーヴィチについてはもう少し何とかならないものか、と感じてしまう。古典派からロマン派にかけての、19世紀近代社会の音楽の代表としてベートーヴェンを取り上げる対として、20世紀現代音楽を代表するのはやはりショスタコーヴィチということになるのではないだろうか。

もっとも、作曲家の出題法はやはり難しい。しいて言えば地域との関係で、390頁のモーツァルトの事例のようにバッハならライプチヒベートーヴェンなら出身地のボンに絡めるという手もあるけれど、いずれにせよ音楽自体から作問するのは、なかなかに困難なところだろう。

もっとも、音楽史の知識があると、例えば44頁で紹介されている福音書については、バッハを知っていると『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』からマタイが馴染であったりと、ごくたまに役立つこともあるのだけれど。しかし四福音書はほぼ覚える対象外というのに違和感があるのは、高校倫理の方で扱っているからだろうか。

15.アレクサンドリア灯台

65頁の問題については、既にブックマークで記したことではあるが、実はブログ版を読んだ後に周藤芳幸『ナイル世界のヘレニズム』名古屋大学出版会、2014年を図書館の棚で見つけ、思わず「あ、id:DG-Lawさんが紹介していたあのアレクサンドリア灯台のお方だ」と形容しがたい笑いを浮かべてしまったことがあるので、敢えてここに再掲しておく。ちなみにムセイオンは、司書課程の「図書・図書館史」では何だかんだ重要な知識なのだけれども、今では「図書・図書館史」自体が選択科目止まりなので何だかなあである。

16.ドイツ語

89-90頁、第二外国語がドイツ語だった人には懐かしい話題では。実はこの辺りのドイツ語の発音の誤解に関しては、『銀河英雄伝説』というのはやたら古風な名前が多いとはいえ、正しいドイツ語発音と誤ったドイツ語発音とが共存していて、素材として大変役に立つと思っているのだけれども、高校から大学にかけて『銀河英雄伝説』を読んでも大抵成績向上には結びつかないであろう点がまた困ったところ。


17.用語の呼称と歴史認識

91頁、「東学党の乱」から「甲午農民戦争」への変遷は、やはり深いなあと思わされる。

日本史では、日本近現代史の教科書記述に対する教科書検定を巡る問題を背景に、朝鮮近代史・近代日朝関係史の教科書記述を、単にある事項が「載っている」「載っていない」ではなく、用語の名称から文脈まで総合的に比較検証してそれぞれの教科書の歴史認識を検証するという、現在振り返ってもなかなか面白い仕事が存在している(君島和彦・坂井俊樹編『朝鮮・韓国は日本の教科書にどう書かれているか』梨の木舎、1992年。改訂版は1996年)。こういった試みが、どちらかと言えば教科書検定・教科書裁判を背景として例外的に成立しているという点は残念で、史実を掲載しているか否かではなく用語の使用法や表現のレベルまで踏まえた、総体的な検証というものが、各分野で積極的に為されれば、とはやはり感じるところ。

18.そして教科書

私は本書の独自性を、授業実践でも教科書記述でもない入試問題から世界史教育を論じた点にあると再三述べてきたけれども、一方で本書が入試問題に留まらず世界史教科書についても論じている、入試問題の分析を潜った上で歴史教科書の検討も忘れていない辺りが、本書の懐の深さだろうと感じている。

前述したように、本格的な分析となると、教科書でさえまだまだなのではないかという気がしているので、著者がコラム1つを割いて世界史教科書の構成について論じていたことは、評価したいところ(178-188頁)。自分が中学生の頃は、『ファミリー版 世界と日本の歴史』シリーズ(大月書店)が何がどう凄いのか全く分からなかったけれども、世界史教科書の確固とした構成を打破しようとした点がやはり凄かったのだなあ、と改めて今回こちらのコラムを読んで連想していたのであった。

これもブックマークで既に提案したことなのだけれども、各書店は是非山川出版社以外の歴史教科書をもっと棚に並べて売って欲しい。下手な参考書や概説書よりも役に立つし、棚に実際にあれば、食指が伸びるという受験生は少なくないはずだと思うので、書店側がヘンに山川の教科書・用語集・『詳説世界史研究』だけを絶対視せずに、教科書販売には色々な規制があるだろうけれども、自腹で他社教科書も揃えて売り込めば、結構な市場拡大になるのではないだろうか。


19.軍事史あれこれ


207-208頁は、新谷かおるエリア88』に馴染があると簡単に答えられそうな。シー・ハリアーの垂直離陸シーンもあるし、F-8は主人公機だし。ただし高校生があれを読んでいると成績は(以下略)。

ただまあ『エリア88』も振り返ると受験世界史的にやらかしてるなあと思うのは、岡部いさくが取り上げていたけれど、アラブ側のはずのアスラン王国が何故かイスラエル系のクフィールを使っているという辺り。

262頁のシャルンホルストグナイゼナウも、むしろ第三帝国期のドイツ海軍を知っていると、戦艦の名前から馴染があるかも。いや実際私なんぞはドイツ史の本で後からシャルンホルストやティルピッツを知ったくちで、プラモデル好きの受験生には有利な問題と言えるのかしら。

20.『映像の世紀

320頁、ベーブ・ルースが実は範囲外という辺りで、「でも『映像の世紀』辺りだとド直球なのになあ」と思ったら448頁でちゃんとシリーズに言及されていたという(ただしなぜか「NHK映像の世紀」と、何もカッコがついていなかったような)。

アメリカ史で姑息に教科書・用語集の流用穴埋めをあるやるぐらいなら、『映像の世紀』第3集辺りを事前課題として課してそこから出題する方が余程健全な気がしてしまったのですけれども。ただ映像作品の視聴は、経済的負担の問題でさすがに難しいのかなあ。

21.汎ヨーロッパ・ピクニック

440頁、なぜかハンガリーに関する詳しい出題がなされているのは、現行版よりも一世代前の山川の『詳説世界史』では、カラーで写真が載っていたはずなので、出題者が本文と同じ基準で「範囲内だ」と思ったのかも、とは。いかにも「東側」という感じの作りの自動車が並んでいて、個人的には結構印象的だった写真ですけれども。

22.「赤軍

299頁、「赤衛軍」と「紅軍」の問題は、個人的には大笑いした問題でした。他の出題にはうんざりしたのですが、この問題だけは「さすが上坂すみれの母校」と感じ入ってしまったという。

23.「友人」

そして、前述の赤軍の他、チベットや「ザカフカース=ソヴィエト連邦社会主義共和国」(427頁)に関して鋭い意見を述べてくる「友人」達の存在も一部の読者には読みどころだろう。iid:Mukkeさんは友人の1人であることを公表されているが、一部の表記からこの「友人」が複数おられることは確実なようだ。ただし、少なくともこの3つに関しては同一人物としか読めないのは私だけだろうか。

24.モルトケ、或いは漫画版世界の歴史

個人的な衝撃度は高い、大モルトケ・小モルトケ範囲外問題。これは習った教師や講師の趣味ではなく、どう考えても集英社版『学習漫画 世界の歴史』の影響だろうから、この点は著者の期待を裏切った自信が在る。この19巻構成の旧版の内、多分13巻の、「第一次世界大戦ロシア革命」だったと思うけれど、今振り返ると第1章がビスマルクによるドイツ帝国統一で、第2章以降で第一次世界大戦という、妙にドイツ史中心の構成だったような…。

あの旧版は今思えば「オスマン=トルコ」がクリミア戦争(12巻の冒頭)までは良く出てくるけれど20世紀のトルコはほぼ無視だし、13巻にドイツ統一をもってきたから、帝国主義を扱ったはずの12巻がアヘン戦争や「セポイの反乱」が中心で、ベルリン会議の話なんかは高校世界史で初めて全体像をつかんだものだったけれども、ともかくも小学・中学時代にはお世話になっていたもので、漫画版世界の歴史の比較分析というのも、誰かが取り組むべき一大テーマではないだろうか。

もしも著者監修の世界史アニメないしは世界史ゲームがあったら面白いのではないか、とも思っていたりするのだけれども、いかがだろうか。

25.用語削減を巡って 日本史との比較から

著者の最後の提言について、前から私は用語削減について今一つしっかりと意見を構築出来ていないところがあったのだけれど、この間ブックマークで受験日本史における出題と受験世界史における出題との違いについてコメントしたところ望外な注目を受けてからは、この2点はつながっているのではないかという仮説を有している。

受験日本史においては、色々と問題を有しながらも、ともかく史料読解問題が出題される。教科書にはごくわずかながらも史料が収録されており、大抵は副教材として「史料集」が活用され、教科書や「資料集」と共に受験生は教材として用いるし、大学入試においても出題範囲として扱われる。

こういった受験日本史の出題法に比べると、受験世界史は基本的に史料問題を欠いている、と言える。勿論そういった現状が望ましいとされているとは思えないけれども、現状において受験世界史は史料という、具体的な素材を読解し、史実の個別解明を行う領域を扱うことが困難となっている。

最近は知らないけれども、以前は受験日本史において、本書で言及された一橋大のような地位を確実に占めていたのは、東京学芸大学の二次試験であったけれども、その学芸大は史料読解も含めた論述を課していたという辺りに、特色が伺えるのではないだろうか。

史料問題という、個別具体的な史実への解明という領域を欠いたまま、世界史が用語の大幅な削減を行った時、一体どのようにして個別具体的な史実への着目を担保するのか、という問いが発生するのではないかと、そんなことを最後の提言からは連想させられたのだった。


以上で、取りあえず一連のメモを終えることとしたい。