『君の名は。』(2016年)

 積極的に映画館で観ることを奨める、というよりは「映画館という映画に専念出来る空間で2時間かけて一気に観てしまう方が鑑賞しやすい」という消極的な理由になってしまうけれど、現代日本におけるアニメ作品に一定の関心を有している人ならば、観に行っても良いと思う。黄色信号というところなので、全速で突っ込んで事故になっても知らないし、ここで止まって様子を見ても構わないし、減速しながら進行しても良いと思う。

 という訳で、例によって以下はネタバレを含みながら記しますので悪しからず。


 いやー如何でしたか、まさか東京駅の横須賀線ホームの主人公から中央線ホームにあずさ2号で降り立つもう一人の主人公が偶然見れる時間帯があったという、まさに奇跡でしたね。

 え、今は東京駅の中央線ホームは高架でその上あずさ2号は東京駅に行かないし、横須賀線ホームは地下でそんな松本清張の『点と線』みたいな光景はありえないって?はい、この記述が大嘘だと分かった方はこれ以降をどうぞ。二重に警告致しましたから、以下は宜しく。


 観ている時から素直な感嘆よりもおやおやというツッコミが上回った感じはあり、またところどころ入るコメディタッチなところの方が単純に笑えたという面もあり、と全体としては単純な感動作扱いはいかがなものか、というところはあります。

 まず全体の構成として、男女の主人公同士の入れ替わりという軸と、隕石落下による主人公女の村社会の危機と主人公女が受け継いできた歴史という軸と、この2つの交差がどうも上手く処理できていなかったのではないか、という論点が出せるのではないかと。

 極論を言えば、後者の問題軸は全廃してしまって、前者の問題軸だけで構成した方が作品としてもすっきりしたし、説明不足気味という弱点を抱えることもなかったのではないかと、構成・脚本の問題として感じる訳です。

 本作に似た作品として私個人が思い出すのは、劇場版ドラえもんの2作目『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』1981年でして、あれは異世界との記憶の混交から始まって、両者の間の接触と齟齬を挟みながら、最後は両者の共闘によって異世界の悪が倒れ問題が解決されると共に両者が別れていくという、書くと単純ですが骨太で筋の通った物語だったと今でも思っています。第1作ということで劇場版の代表作として言及されることの多い『ドラえもん のび太の恐竜』よりもSFとしての脚本構成は上じゃないかとも。

 それに比べると本作は結局主人公男と主人公女とが物語中盤で一旦再会したことから始まって、隕石落下前の避難による危機の回避という未来の修正という過程が、村社会の歴史という過去とのつながりでどういう意味を持ち、主人公たちによって何が為されて未来へと変わっていったのかが、全然説明されずに終わったという気がします。

 例えば主人公女の祖母も過去に他人との入れ替わりを経験しているし、主人公女は直観として先祖たちが村を隕石から救うための存在ではないかと悟ってはいますが、その点は余り掘り下げられていない。主人公女の父である町長は、元民俗学者という経歴も設定されていて、彼が母との別離後にあれだけ一族と神社から離れ対立していったこと、そして最後の最後に主人公女の説得を受け入れたことには、相応にこの一族の歴史が関わっていたのではないかと推測はされますが、この点もほとんど謎のままです。

 村を救うための主人公女と同級生たちの行動は、明らかに主人公女の父である大人たちとの世代間対立の様相を呈していますが、その点も危機克服の困難さとしては描写されながら、克服の過程では忘れられていった感があるのではないかと。

 過去の隕石落下の後の小災害で伝承と歴史が断絶し、神事の意味も忘れられたという部分の設定そのものは面白かったのですが、この点を上手く処理できなかったのだと感じています。この点については、上橋菜穂子の『精霊の守り人』が実に巧みに興奮をもって描いていただけに、中盤の再会への伏線で終わってしまったのには、もっと上手く後半で展開する方法もあったのではと思えてしまうのですが。


村社会を一つの風景としては描いていたので、風景の消失という描写としては十分だったのでしょうが、人間集団としてのまた歴史を引き継いだ存在としての村社会を提示しないままその危機だけを取り上げる形になり、それならばいっそ村社会の歴史とその危機というモチーフ全体が無くても良かったのではと感じた、というのは上述の通りです。別に主人公女の事故なり一家の危機なりといった水準の問題であっても良かったはずです。


男女の主人公同士の入れ替わりには、付随した軸として時間軸のずれという点が大きな要素でしたが、これの処理も正直上手くいったとは言い難い感があります。改めて『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が構成としては単純でも、時間軸のずれや倒叙を上手く使っていたなと感じたのはさておいて、主人公男が3年の時間のずれを認識出来なかったというのはいささか苦しく、3年前の彗星接近と隕石事故のことを一切忘却していたことを特殊な記憶の忘却で片づけるのはどうかと。

彗星と隕石落下という自然現象という設定により、「敵」がいないのにやたらと記憶と記録の消失が起こるのはどういう要素によるのだろう、という点は説明不足ですし納得できないまま終わった点です。別に韓国ドラマのように記憶喪失を多用しようが、松本清張推理小説みたいにいかにも偶然的な接触があろうが、最後に理由や構成がそれなりに構築されればメロドラマにおける必然として別にそうは気にならなかったのでしょうけれども、主人公男も主人公女も両方忘却してしまっていることで忘却の痛みも描写されないし、でも完全には忘却されずに最後は再会する、という微妙な物語になってしまった感はあります。

ポスター一つとっても何かと対照的な入れ替わりという構図を多用している割に、物語としては主人公女の過去とその願望が入れ替わりにつながっているのに対し、主人公男が入れ替わりに選ばれた理由も説明されないし、主人公男の方にも母親の不在という説明されない過去が想定されているのに掘り起こされないし、と存外に非対称なのも気になった点です。

構成に関連していえば、冒頭部のラストシーンの容姿の2人によるモノローグは倒叙として意味を持ったのかしら、という気がした点も挙げられます。テレビドラマのCM前じゃあるまいし、とは言い過ぎかもしれませんが、ラストシーンにもう一つ入れ込めなかった要因の一つは、あの冒頭部である以上主人公女は確実に高校生以上までは生存しているだろうという刷り込みで、個人的にラストで一番盛り上がったのは主人公女の同級生たちが主人公男の脇に居たシーンでした(あれも地元残留志向の二人が上京しているのはおかしいというツッコミがありましたが、その点はまあ堅いこと言ってもしょうがないのかなと感じるだけの説得力はあったような)。

構成との関連の2点目として、導入部として男女入れ替わりの始まりが提示された次の、男女入れ替わりが日常と化して二人で「ルール」が確立されていく、コメディタッチとしては一番面白そうで、恋愛としては二人の接近過程そのものという重要な過程が、明らかに省略化されていたことはどうにも勿体ない感じがしました。あの部分を拡充して、男女の入れ替わりという軸一本で作品化出来なかったのかなあ、と思わされる訳で。

思春期物としてみると、入れ替わりを設定したので、お互い相手の体については知っていて乳房や股間まで触ったことがある一方で、最後まで手が触れて満員電車で体が接したぐらいという、一方での卑俗なまでのエロとプラトニックな純愛との対比は入れ替わりゆえの描写として面白くはあったのですが、エロティズムもないしそこまでこれも掘り下げられなかったなあと。

また東京の描写として、東京の高校生の或る面に特化した描写なのはまあ分かるとして、新宿・四ツ谷・外苑前辺りの東京でも限定された地域が東京として取り上げられている点はなかなか面白かった点です。総武線各駅停車と山手線の代々木駅南での分岐に馴染のある人はラストでおおっと思ったかもしれません*1。まあ私としては、千駄ヶ谷駅原宿駅から引き返して会うってなかなかの「奇跡」だなあと思ってしまったところもありましたが*2

しかし明らかに原型となったZ会CMの『クロスロード』でも、わざわざ御茶ノ水駅で登場している辺り、監督は総武線各駅停車に相当思い入れがあるのかしらと、鉄道描写ではこの点が一番気になっています。

後は新幹線で三列シートが内陸側で2列シートが太平洋側かと気になったのですが、この点は逆で忠実な再現だったかもしれず、誰か確認してくれるだろうと*3

主人公男の同級生たちも主人公女の同級生たちもそれぞれ好人物なのですが、逆に言えばそれだけ記号的かつ脇役的ということでもあって、奥寺先輩も「イイ女」でしかないと言えばそれまでということでしょうか。変電所爆発シーンのギャグ的大仰さを観たので、いっそこの面子で奥寺先輩が峰不二子的ポジションの荒唐無稽な冒険活劇ものがあったら面白そうだ、と感じたりもしています。

演技としては、主人公男が内面に入った主人公女は様になっても、主人公女が内面に入った主人公男はさすがにいささか滑稽という、監督もその点敢えて神木隆之介を指名したという非対称性はどうしても残ったように感じます。あとは茶風林は一発で分かったのに町長の井上和彦を特定し損ねたのは少々不覚でした。

あとはこれはもう好みですが、映画音楽としては私はやはり管弦楽主体の方が良いと思う性質で、ポップスの連発は余り良い印象では無かったです。

*1:この点は不正確な推測で、http://d.hatena.ne.jp/shigak19/20161030/1477834692で再見時に確認したところ瀧の最寄り駅は四ツ谷駅と推測することが妥当で、新宿駅から代々木駅方面に二人が向かっていたと推測する際の根拠だった新宿駅の描写はあまり関係がないと思われ、再見すると特定の線と明示する情報も無かったことから、四ツ谷千駄ヶ谷間で並走したシーンと推測するのが妥当であり、この際加筆訂正しておく(10月30日)

*2:前述と同じく、千駄ヶ谷駅新宿駅南口なのは再見時にはっきりと確認することが出来、この部分は不正確であったので加筆訂正したい。ただ、そちらはそちらでより広範囲な「奇跡」ではある

*3:この点はhttp://d.hatena.ne.jp/shigak19/20161030/1477834692で再見時に確認したところ、やはり逆だった。

第2期積読本順位戦

単なる積読本を何となく並べて、将棋の順位戦風にしてみただけのリスト。


A級 挑戦1冊、降級2冊

1 村井吉敬『エビと日本人』岩波新書新赤版
2 桜井英治『贈与の歴史学中公新書
3 荻原魚雷『閑な読書人』晶文社
4 阿部謹也『北の街にて』講談社
5 齋藤純一『政治と複数性』岩波書店
6 前川恒雄『移動図書館ひまわり号』夏葉社
7 『丸山眞男集』第3巻 岩波書店
8 市村弘正『小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー
9 丸山眞男『自己内対話』みすず書房
10 岡崎武志『貧乏は幸せのはじまり』ちくま文庫

B級1組 昇級2冊、降級2冊

1 鹿野政直『近代日本の民間学岩波新書黄版
2 ガイリンガー『ブラームス』芸術現代社
3 岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書
4 米澤嘉博『戦後少女マンガ史』ちくま文庫 
5 吉沢南『個と共同性』東京大学出版会
6 家永三郎『太平洋戦争』岩波現代文庫
7 加藤周一『高原好日』ちくま文庫
8 網野善彦『蒙古襲来』上 小学館ライブラリー
9 黒羽清隆『十五年戦争史序説』三省堂
10 保立道久『ブックガイドシリーズ基本の30冊 日本史学』人文書院
11 『市民の図書館』増補版 日本図書館協会
12 遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会
13 猪谷千香『つながる図書館』ちくま新書  

B級2組 昇級2冊、降級点7冊 降級点2回で降級

1 『加藤周一セレクション』5 平凡社ライブラリー
2 棚橋光男『王朝の社会』小学館ライブラリー
3 『「慰安婦」問題を/から考える』岩波書店
4 丸山眞男『現代政治の思想と行動』未来社
5 竹宮恵子風と木の詩』1 白泉社文庫
6 米澤嘉博『戦後SFマンガ史』ちくま文庫
7 柴田三千雄『近代世界と民衆運動』岩波書店
8 吉見義明『焼跡からのデモクラシー』上 岩波現代選書
9 荒川章二『軍隊と地域』青木書店
10 『岩波講座日本歴史 近代3』岩波書店
11 近藤ようこ『水鏡綺譚』ちくま文庫
12 勝俣鎮夫『一揆岩波新書黄版
13 ルービン『図書館情報学概論』東京大学出版会
14 近藤成一『シリーズ日本中世史2 鎌倉幕府と朝廷』岩波新書新赤版
15 萩尾望都トーマの心臓小学館文庫
16 藤田省三久野収鶴見俊輔『戦後日本の思想』岩波現代文庫
17 逸村裕・竹内比呂也編『変わりゆく大学図書館勁草書房
18 森政稔『変貌する民主主義』ちくま新書
19 『中井正一評論集』岩波文庫
20 大島弓子『夏の終わりのト短調白泉社文庫
21 『長谷川如是閑評論集』岩波文庫
22 安丸良夫出口なお』朝日選書
23 大谷正『日清戦争中公新書
24 藤井譲治『シリーズ日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』岩波新書新赤版
25 長尾真『電子図書館』新装版 岩波書店
26 竹宮恵子風と木の詩』2 白泉社文庫
27 竹宮恵子風と木の詩』3 白泉社文庫
28 柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫
29 プラトン『国家』上 岩波文庫
30 上野英信『追われゆく坑夫たち』岩波新書青版
31 ※木畑洋一『二〇世紀の歴史』岩波新書新赤版
32 ※鹿野政直『歴史のなかの個性たち』有斐閣
33 ※『池田理代子短篇集』1 中公文庫コミック版
34 ※川崎良孝『図書館の歴史 アメリカ篇』日本図書館協会
35 ※『世界の文学新集17 戦争と平和1』中央公論社
36 ※藤井忠俊『国防婦人会』岩波新書黄版
37 ※大島弓子『バナナブレッドのプディング白泉社文庫

C級1組 昇級2冊、降級点7冊 降級点2回で降級

1 大岡昇平ミンドロ島ふたたび』中公文庫
2 渡辺京二北一輝ちくま学芸文庫
3 広田照幸『ヒューマニティーズ教育学』岩波書店
4 フィッツジェラルドマイ・ロスト・シティー』中公文庫
5 上野修スピノザ『神学政治論』を読む』ちくま学芸文庫
6 前田愛『都市空間のなかの文学』ちくま学芸文庫
7 ハシェク兵士シュベイクの冒険』1 岩波文庫
8 石母田正『歴史と民族の発見』東京大学出版会
9 吉澤南『ベトナム戦争 民衆にとっての戦場』吉川弘文館
10 戸坂潤『日本イデオロギー論』岩波文庫
11 マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫
12 マーティン・ジェイ『マルクス主義と全体性』国文社
13 山内志朗『普遍論争』平凡社ライブラリー
14 佐藤進一『古文書学入門』新版 法政大学出版局
15 福永武彦『忘却の河』新潮文庫
16 中勘助銀の匙岩波文庫
17 大塚久雄『社会科学の方法』岩波新書青版
18 高見順『敗戦日記』文春文庫
19 『日本残酷物語』1 平凡社ライブラリー
20 植村邦彦『市民社会とは何か』平凡社新書
21 庄野潤三夕べの雲講談社文芸文庫
22 千野栄一プラハの古本屋』大修館書店
23 安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店
24 二宮宏之『マルク・ブロックを読む』岩波書店
25 小田実『「難死」の思想』岩波現代文庫
26 芝健介『武装SS』講談社選書メチエ
27 本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫
28 鹿野政直『日本の近代思想』岩波新書新赤版
29 森武麿『集英社版日本の歴史 アジア・太平洋戦争集英社
30 ※内田義彦『社会認識の歩み』岩波新書青版
31 ※辻邦生『背教者ユリアヌス』上 中公文庫
32 ※サラ・パレツキー『サマー・タイム・ブルース』ハヤカワ・ミステリ文庫
33 ※池内敏『竹島中公新書
34 ※宮内泰介・藤林泰『かつお節と日本人』岩波新書新赤版
35 ※橋川文三ナショナリズムちくま学芸文庫
36 ※小川徹ほか編『公共図書館サービス・運動の歴史』1 日本図書館協会


C級2組 昇級3冊、降級点10冊 降級点3回で降級

1 佐藤忠男長谷川伸論』岩波現代文庫
2 宮地正人『国際政治下の近代日本』山川出版社
3 野呂栄太郎『日本資本主義発達史』岩波文庫
4 江口圭一『十五年戦争研究史論』校倉書房
5 永原慶二『日本の歴史10 下剋上の時代』中公文庫
6 永原慶二『新・木綿以前のこと』中公新書
7 牧原憲夫『客分と国民のあいだ』吉川弘文館
8 牧原憲夫『シリーズ日本近現代史2 民権と憲法岩波新書新赤版
9 原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争岩波新書新赤版
10 清水透『エル・チチョンの怒り』東京大学出版会
11 宮地正人『日露戦後政治史の研究』東京大学出版会
12 吉澤誠一郎『シリーズ中国近現代史1 清朝と近代世界』岩波新書新赤版
13 ベッケール・クルマイヒ『仏独通史 第一次世界大戦』上 岩波書店
14 鶴見俊輔久野収現代日本の思想』岩波新書青版
15 杉原達『中国人強制連行』岩波新書新赤版
16 土肥恒之『西洋史学の先駆者たち』中公叢書
17 加瀬和俊『集団就職の時代』青木書店
18 杉原達『越境する民 近代大阪の朝鮮人史研究』新幹社
19 ダール『ポリアーキー三一書房
20 永原陽子『「植民地責任」論』青木書店
21 四方田犬彦『漫画原論』ちくま学芸文庫
22 青木正美『古本屋五十年』ちくま文庫
23 黒田日出男『増補 絵画史料で歴史を読む』ちくま学芸文庫
24 カレル・チャペック『ロボット』岩波文庫
25 広井良典『コミュニティを問いなおす』ちくま新書
26 古関彰一『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫
27 竹前栄治『占領戦後史』同時代ライブラリー
28 高橋昌明『増補改訂 清盛以前』平凡社ライブラリー
29 小山力也『古本屋・ツアー・イン・ジャパン』原書房
30 澄田喜広『古本屋になろう!』青弓社
31 村井章介『中世倭人伝』岩波新書新赤版
32 安田浩『近代天皇制国家の歴史的位置』大月書店
33 宮崎駿『本へのとびら』岩波新書新赤版
34 良知力『マルクスと批判者群像』平凡社ライブラリー
35 増田四郎『都市』筑摩書房
36 ジョン・ロック『完訳 統治二論』岩波文庫
37 堀田善衛『ミシェル 城館の人 第一部』集英社文庫
38 ※鶴見俊輔『限界芸術論』勁草書房
39 ※『竹宮惠子SF短篇集2 オルフェの遺言』中公文庫コミック版
40 ※四方田犬彦『ソウルの風景』岩波新書新赤版
41 ※マクリーン『女王陛下のユリシーズ号』ハヤカワ文庫
42 ※くらもちふさこ天然コケッコー』1 集英社文庫
43 ※岡部牧夫『海を渡った日本人』日本史リブレット
44 ※小田実『何でも見てやろう』講談社文庫
45 ※ヘーゲル『歴史哲学講義』上 岩波文庫
46 ※木村靖二『第一次世界大戦ちくま新書
47 ※田中芳樹夏の魔術講談社文庫
48  松本清張『或る「小倉日記」伝』新潮文庫
49  斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫
50  清岡卓行アカシヤの大連講談社文芸文庫
51  吉田裕『現代歴史学と戦争責任』青木書店

第1期 松本清張ゼロの焦点』カッパノベルズ

はてなブックマーク別館 自称愛国似非保守の言論における誤認と無責任さについて

ことの発端は、NHKのこちらの報道だった。

はてなブックマーク - 子どもの貧困 学生たちみずからが現状訴える | NHKニュース

しかし、「本人とされるtwitter」に基づいて、「報道された女子高生が貧困ではない」「NHKの捏造である」等々の言説が『保守速報』などインターネット上の各サイト等に出回り、遂には片山さつき自民党参議院議員NHK側に説明を求めることを言明するという事態に至っている。

このような言説、特に似非保守的サイトとしてある意味著名な『保守速報』のそれについては、既にid:hokke-ookami氏による反批判記事アニメーター志望だった母子家庭の高校生に対して、画材を購入する余裕があるから貧困ではないという保守速報は、今の日本の象徴なのだろう - 法華狼の日記がある。

私としては、どちらかと言えば政治問題として片山議員の言動に絞って批判を加えることが、女子高生の基本的人権の擁護の為にも必要と考えて、例えばhttp://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160821110947などで片山議員批判のブックマークを行ってきた。

ところが今夜、かつて大要「地震時に朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが広まるのは仕方なく、それに大騒ぎするネトウヨブサヨどもはけしからん」といった趣旨のどう客観的に読んでも基本的人権を公然と否定して恥じない言説を過去にのたまった(はてなブックマーク - 「朝鮮人が井戸に毒」に大騒ぎするネトウヨとブサヨどもに言いたい!)、自称愛国似非保守であられる小坪慎也行橋市議会議員のホームページに掲載された記事はてなブックマーク - 【NHK捏造発覚】超貧困女子高生、別に貧しくなかった。【凋落するメディア】 | 小坪しんやのHP~行橋市議会議員に接した。

以下本記事では、小坪言説の妥当性について論じ、小坪市議の批判に対する反批判を展開したい。

まず小坪言説を一読して気付くこととして、全くと言って良い程独自の情報が無い、まとめサイト等の言説をそのまま事実と結論として断じていることを挙げておこう。

この点については、御本人が堂々と以下のように記しているくらいだ。

不正と是正
リオ五輪もそうであるが、様々な不正が発覚した。
多くはカメラ撮影の結果だろうと推論がされている。
これも同じ話であって、恐らくは「偽装など多数あった」のだ。
ネットが黎明期などは、ひどい情報も飛び交ったものだ。
細菌では、これでもマシになったほう。

中には「CGでクイズ番組の参加者を消す」という、凄まじいものもあったが、
過去に比べればマシになりつつはある。

それだけメディアの力も落ちたのだろう。
かつては「取り上げられる」ことすらなかった。

ネットで炎上するのが関の山で、報道関係の不正・捏造に「ソースがつくことはなかった」のだ。
今回の件は、興味本位もあるのだろうが、報道でも取り上げられている。
主にネットメディアであるが、恐らく新聞以上の効果を持つ。
驚いたのはLINEのニュースにも載っており、SNSでの広がり方は凄まじいものがあるのだろう。

メディアの力の、凋落。

これらの情報収集。
私はBlogにまとめただけであって、ほとんどがまとめサイト・某匿名掲示板の書き込みをベースとしている。
私の推論ではない。

情報の収集までは、ネットで各個人が行ったことなのだ。
いまはそういう時代なのである。
まるでオリンピックの「判定のカメラ」のように。

「ほとんどがまとめサイト・某匿名掲示板の書き込みをベースとしている」「私の推論ではない」とまで言い切っている。

被害者は誰か、加害者は誰か
少し真面目にも話しておこう。
私は、この子が可哀想だと思う。
加害者は「出汁に使おうとしたNHKの記者」である。
断じてネットの言論や、私ではない。
表現の自由がある以上、私は好きなことを書くし、言う。
結果として賛同もあるし、批判もある。
時にはハレーションも起こす。

それが「意思表示をする」ことなのだ。
権利はあるが、対になる義務もある。
これは先般の、よくわからない会合の場(短縮されたら意味がわからぬ、公人の会)でも述べたこと。
今回、上京するが、ワーカーズコープタクシー福岡をはじめ、「報告」してくる。
まぁ、それはいい。終わったら書こう。

こういう形で、前に出れば。
評価、評論の対象となってしまうのだ。

SEALDsだってそうじゃないか。
結局は、参加者は可哀想なことになってしまった。
就職などを含め、私の言った通りじゃないか。
徹頭徹尾、学生側に立脚して論じたのは、私だけだと思う。

彼女を被害者だと認識する方がおれば、
加害者はNHKである。

とは言え、彼女の場合は自己責任でもある。
未成年ゆえどこまで問われるべきかは迷いもあるが、
明確な政治参加である以上、年齢を口にすることは難しい。

だから子供を出汁に使うな、と。

凄まじい議論である。
この論調からすると、たとえ自身の批判に誤りがあってその結果少女の基本的人権が傷つけられたとしても、悪いのはNHKだと言うのである。

たとえ不正なり捏造なりがあったとしても、それに対する批判が誤りを含んでいて、基本的人権を侵害した場合は、その批判者が責を負うということは、政治思想とか政治家の仕事以前の問題であろう。

小坪議員は、自らの言論に責任を負わない、無責任な政治家であるという点を、まずもって批判したい。

そしてこのように、御本人がまとめサイト等をまとめただけで自身の推論もないと言い切るだけあって、この言説には独自の解釈や新情報が全くと言っていいほどない。従ってこの小坪言説における根拠を検討すると、最終的には「本人とされるtwitterのつぶやき内容」という、全く以て根拠としては薄いというか、客観的検証を欠いた要素によってしか「事実」の提示・検証が行われていない、という大きな問題が浮かび上がってくる。

そもそもこの「本人とされるtwitter」、当然のことだが取材対象である女子高生本人のものかどうか、検証を経ないといけないことは言うまでもない。著名人の公式サイトではない以上、検証抜きにこの記載内容を事実扱いをした時点でそちらの方が余程「捏造」的欺瞞なのだが、このようなあやふやな根拠によって事実関係を断定しても政治家としての資質に疑問符がつかないのが、大和魂に満ちた日本古来の伝統を尊ぶ愛国心に富んだ自称愛国似非保守の皆さんで作る世界の驚くべき寛容さというものである。

仮にこの「本人とされるtwitter」の内容が事実であったとしても、小坪議員の女子高生批判には致命的な事実認識不足がある。

7800円の舞台鑑賞。
情操教育に自己投資する姿は、誉められて良いと思う。
今後も頑張って頂きたい。

ただし、極貧ではない。
(そして中古PCは買える。)

自己投資にここまで予算をかける高校生、私は偉いと思う。
それが趣味であったとしても、たいしたものだ。

否定はしない、むしろ誉める。
ただし極貧ではない。

上述のNHK報道の原文でも明記されているし、id:hokke-ookamiさんの記事でも散々論じられていることだが、

進路を選ぶ3年生の夏を迎えたうららさん。絵が好きで、アニメのキャラクターデザインの仕事に就きたいと、専門学校への進学を希望していましたが、入学金の50万円を工面することが難しく、進学は諦めました。

この点が小坪議員の論評には、全く反映されていないとしか読めないのである。完全なる事実誤認であるか、もしくは小坪議員の記事で初めてこの件を知る読者に、単なる「趣味」での「豪遊」として彼女のイラストやワンピースに関する言動を紹介しようとして意図的に言及しなかった、悪質な言及なのか、いずれだろうか。

前者であるのならば、高校現代文のように「まずはしっかりと本文を全部読む」ということも身についていない残念な御方が文章を書いていると感じざるを得ないし、後者ならばもはや小坪議員こそ「捏造」を行っているのではないかと批判対象となってしかるべきであろう。

人間だれしも間違いはあるものだが、しかしその間違いも他者の「捏造」を質すための正義であると開き直る人間によって行使されると、その間違いが侵害する人権は無責任によって救済されず、二重に侵害されるということになってしまう。

小坪議員の粗雑な言動が、その無責任さと結びつくことに、基本的人権の尊重という観点からも懸念をせざるを得ない所以である。

そしてこのような小坪議員の言説の問題性が端的に表れているのは、何よりもその表題だろう。

NHK捏造発覚】超貧困女子高生、別に貧しくなかった。【凋落するメディア】


今時スポーツ紙でもここまで断定調の、事実と言い切った見出しがあるだろうか。もしこのような見出しの記事を書いておいて事実誤認を含んでいた場合、相応に責任を取るのが書き手の当然の責任というものだろう。

以上、小坪議員の言説について述べたが、更に深刻なことは、小坪議員がこの記事を紹介するリプライを片山さつき議員のtwitterアカウントに送り(小坪慎也@トレンド1位 on Twitter: "片山先生、お久しぶりです。
市議の小坪です。私のBlogにまとめてみました。

【NHK捏造発覚】超貧困女子高生、別に貧しくなかった。
https://t.co/imCVE9Jro8

後段にまとめていますが、記者が貧困対策の団体に入っておりまして(続… ")、それを片山議員が自らリツィ−トとしたという、こちらは同じtwitterでも紛れもない、公然たる事実である(片山さつき (@katayama_s) | Twitter)。

このような誤認と無責任とにまみれた言説を受け入れる、「公然と批判しない」議員が存在することを、与党議員が平然と「説明」と称してNHKの番組内容に政治的な影響を与えることに躊躇しないという報道と政治の望ましくない関係と共に、改めて批判して記事のまとめとしたい。

(追記 8月22日 23時45分)

リンク先等に誤記があり申し訳ありませんでした、一部訂正いたしました。

そして、事実関係についてはid:hokke-ookamiさんが新しい記事で、匿名記事の事実誤認についてより詳しく論じており(NHK貧困報道の高校生に対し9割同意できる匿名記事を見かけたが、実際の報道を参照していないため残り1割が致命的に間違っている - 法華狼の日記)、小坪議員がそのようなサイトに基づいて記事を書くことの問題性をより浮かびあがらせていると考えます。

積読本順位戦

単なる積読本を何となく並べて、将棋の順位戦風にしてみただけのリスト。

読書中 松本清張ゼロの焦点』カッパノベルズ


A級 挑戦1冊、降級2冊

1 齋藤純一『政治と複数性』岩波書店
2 桜井英治『贈与の歴史学中公新書
3 荻原魚雷『閑な読書人』晶文社
4 阿部謹也『北の街にて』講談社
5 『丸山眞男集』第3巻 岩波書店
6 前川恒雄『移動図書館ひまわり号』夏葉社
7 村井吉敬『エビと日本人』岩波新書新赤版
8 ガイリンガー『ブラームス』芸術現代社
9 市村弘正『小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー
10 鹿野政直『近代日本の民間学岩波新書黄版

B級1組 昇級2冊、降級2冊

1 岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書
2 加藤周一『高原好日』ちくま文庫
3 丸山眞男『自己内対話』みすず書房
4 米澤嘉博『戦後少女マンガ史』ちくま文庫 
5 吉沢南『個と共同性』東京大学出版会
6 家永三郎『太平洋戦争』岩波現代文庫
7 網野善彦『蒙古襲来』上 小学館ライブラリー
8 棚橋光男『王朝の社会』小学館ライブラリー
9 黒羽清隆『十五年戦争史序説』三省堂
10 保立道久『ブックガイドシリーズ基本の30冊 日本史学』人文書院
11 『市民の図書館』増補版 日本図書館協会
12 岡崎武志『貧乏は幸せのはじまり』ちくま文庫
13 『加藤周一セレクション』5 平凡社ライブラリー 

B級2組 昇級2冊、降級点7冊 降級点2回で降級

1 遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会
2 猪谷千香『つながる図書館』ちくま新書
3 『「慰安婦」問題を/から考える』岩波書店
4 丸山眞男『現代政治の思想と行動』未来社
5 竹宮恵子風と木の詩』1 白泉社文庫
6 米澤嘉博『戦後SFマンガ史』ちくま文庫
7 木畑洋一『二〇世紀の歴史』岩波新書新赤版
8 鹿野政直『歴史のなかの個性たち』有斐閣
9 荒川章二『軍隊と地域』青木書店
10 『岩波講座日本歴史 近代3』岩波書店
11 柴田三千雄『近代世界と民衆運動』岩波書店
12 勝俣鎮夫『一揆岩波新書黄版
13 ルービン『図書館情報学概論』東京大学出版会
14 『池田理代子短篇集』1 中公文庫コミック版
15 萩尾望都トーマの心臓小学館文庫
16 藤田省三久野収鶴見俊輔『戦後日本の思想』岩波現代文庫
17 逸村裕・竹内比呂也編『変わりゆく大学図書館勁草書房
18 吉見義明『焼跡からのデモクラシー』上 岩波現代選書
19 川崎良孝『図書館の歴史 アメリカ篇』日本図書館協会
20 大島弓子『夏の終わりのト短調白泉社文庫
21 『長谷川如是閑評論集』岩波文庫
22 『中井正一評論集』岩波文庫
23 『世界の文学新集17 戦争と平和1』中央公論社
24 藤井忠俊『国防婦人会』岩波新書黄版
25 森政稔『変貌する民主主義』ちくま新書
26 安丸良夫出口なお』朝日選書
27 大島弓子『バナナブレッドのプディング白泉社文庫
28 竹宮恵子風と木の詩』2 白泉社文庫
29 藤井譲治『シリーズ日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』岩波新書新赤版
30 近藤成一『シリーズ日本中世史2 鎌倉幕府と朝廷』岩波新書新赤版
31 柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫
32 竹宮恵子風と木の詩』3 白泉社文庫
33 大谷正『日清戦争中公新書
34 近藤ようこ『水鏡綺譚』ちくま文庫
35 長尾真『電子図書館』新装版 岩波書店

C級1組 昇級2冊、降級点7冊 降級点2回で降級

1 大岡昇平ミンドロ島ふたたび』中公文庫
2 サラ・パレツキー『サマー・タイム・ブルース』ハヤカワ・ミステリ文庫
3 広田照幸『ヒューマニティーズ教育学』岩波書店
4 フィッツジェラルドマイ・ロスト・シティー』中公文庫
5 上野修スピノザ『神学政治論』を読む』ちくま学芸文庫
6 前田愛『都市空間のなかの文学』ちくま学芸文庫
7 ハシェク兵士シュベイクの冒険』1 岩波文庫
8 石母田正『歴史と民族の発見』東京大学出版会
9 吉澤南『ベトナム戦争 民衆にとっての戦場』吉川弘文館
10 戸坂潤『日本イデオロギー論』岩波文庫
11 マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫
12 マーティン・ジェイ『マルクス主義と全体性』国文社
13 プラトン『国家』上 岩波文庫
14 辻邦生『背教者ユリアヌス』中公文庫
15 福永武彦『忘却の河』新潮文庫
16 上野英信『追われゆく坑夫たち』岩波新書青版
17 大塚久雄『社会科学の方法』岩波新書青版
18 内田義彦『社会認識の歩み』岩波新書青版
19 山内志朗『普遍論争』平凡社ライブラリー
20 植村邦彦『市民社会とは何か』平凡社新書
21 庄野潤三夕べの雲講談社文芸文庫
22 千野栄一プラハの古本屋』大修館書店
23 安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店
24 『日本残酷物語』1 平凡社ライブラリー
25 池内敏『竹島中公新書
26 宮内泰介・藤林泰『かつお節と日本人』岩波新書新赤版
27 二宮宏之『マルク・ブロックを読む』岩波書店
28 小田実『「難死」の思想』岩波現代文庫
29 芝健介『武装SS』講談社選書メチエ
30 高見順『敗戦日記』文春文庫
31 佐藤進一『古文書学入門』新版 法政大学出版局
32 中勘助銀の匙岩波文庫
33 渡辺京二北一輝ちくま学芸文庫
34 橋川文三ナショナリズムちくま学芸文庫
35 小川徹ほか編『公共図書館サービス・運動の歴史』1 日本図書館協会


C級2組 昇級3冊、降級点10冊 降級点3回で降級

1 本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫
2 佐藤忠男長谷川伸論』岩波現代文庫
3 野呂栄太郎『日本資本主義発達史』岩波文庫
4 森武麿『集英社版日本の歴史 アジア・太平洋戦争集英社
5 永原慶二『日本の歴史10 下剋上の時代』中公文庫
6 永原慶二『新・木綿以前のこと』中公新書
7 牧原憲夫『客分と国民のあいだ』吉川弘文館
8 牧原憲夫『シリーズ日本近現代史2 民権と憲法岩波新書新赤版
9 原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争岩波新書新赤版
10 宮地正人『国際政治下の近代日本』山川出版社
11 宮地正人『日露戦後政治史の研究』東京大学出版会
12 吉澤誠一郎『シリーズ中国近現代史1 清朝と近代世界』岩波新書新赤版
13 鶴見俊輔『限界芸術論』勁草書房
14 鶴見俊輔久野収現代日本の思想』岩波新書青版
15 江口圭一『十五年戦争研究史論』校倉書房
16 土肥恒之『西洋史学の先駆者たち』中公叢書
17 加瀬和俊『集団就職の時代』青木書店
18 『竹宮惠子SF短篇集2 オルフェの遺言』中公文庫コミック版
19 ベッケール・クルマイヒ『仏独通史 第一次世界大戦』上 岩波書店
20 四方田犬彦『ソウルの風景』岩波新書新赤版
21 四方田犬彦『漫画原論』ちくま学芸文庫
22 杉原達『中国人強制連行』岩波新書新赤版
23 杉原達『越境する民 近代大阪の朝鮮人史研究』新幹社
24 ダール『ポリアーキー三一書房
25 広井良典『コミュニティを問いなおす』ちくま新書
26 古関彰一『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫
27 竹前栄治『占領戦後史』同時代ライブラリー
28 青木正美『古本屋五十年』ちくま文庫
29 小山力也『古本屋・ツアー・イン・ジャパン』原書房
30 澄田喜広『古本屋になろう!』青弓社
31 村井章介『中世倭人伝』岩波新書新赤版
32 田中芳樹夏の魔術講談社文庫
33 宮崎駿『本へのとびら』岩波新書新赤版
34 カレル・チャペック『ロボット』岩波文庫
35 岡部牧夫『海を渡った日本人』日本史リブレット
36 小田実『何でも見てやろう』講談社文庫
37 高橋昌明『増補改訂 清盛以前』平凡社ライブラリー
38 ヘーゲル『歴史哲学講義』上 岩波文庫
39 清水透『エル・チチョンの怒り』東京大学出版会
40 くらもちふさこ天然コケッコー』1 集英社文庫
41 マクリーン『女王陛下のユリシーズ号』ハヤカワ文庫
42 木村靖二『第一次世界大戦ちくま新書
43 永原陽子『「植民地責任」論』青木書店
44 黒田日出男『増補 絵画史料で歴史を読む』ちくま学芸文庫
45 堀田善衛『ミシェル 城館の人 第一部』集英社文庫
46 鹿野政直『日本の近代思想』岩波新書新赤版
47 ジョン・ロック『完訳 統治二論』岩波文庫
48 良知力『マルクスと批判者群像』平凡社ライブラリー
49 増田四郎『都市』筑摩書房
50 安田浩『近代天皇制国家の歴史的位置』大月書店

『シン・ゴジラ』(2016年)

特撮、あるいは庵野秀明という人について少しでも知っている人は、観て損はないと明言出来ますし、こういう作品は映画館で何も知らずに観るのが面白いだろうと思いますので、以下はいわゆるネタバレばかりですから、御覧になってからお読みください。



 さて、御覧になっていかがでしたでしょうか。

 いやー凄かったですね、海上自衛隊護衛艦隊のみならず戦艦大和を引き上げての大海戦。まあゴジラ三原山に転倒していくのはお約束でしょうか。


 …という記述が大嘘だと分かった方のみ以下の記事をお読み下さい。二重に警告しましたので、宜しくどうぞ。


 最初に書いておくと、昨年『ガールズ&パンツァー』の記事に、メタで面倒くさい記事であるという御批判を頂戴いたしましたが、映像表現に関してボンクラな当方は、基本的にこれまでに観た映像作品に基づいた「メタ」で「面倒くさい」見方でしか映画について書けないというところがあるのは、まあ自覚しております。

 従って今回もそういう記事になることははっきりしている訳ですが、ところで『シン・ゴジラ』という作品は、かなり意図的に過去の特撮作品を「メタ」に取り入れているのが特色の一つです。

 冒頭、現在の「東宝」のロゴが出た後、初代ゴジラの頃の東宝のロゴが改めて出てから題字が現れる、この時点で特撮マニアの申し子たる庵野秀明らが、過去の特撮作品の文脈の上にオマージュとして新作を作った、そういう意図が示されていました。

 そこで敢えてガルパンの時の書き方を踏襲して書こうと思いますが、実は当方は後述するようにウルトラシリーズの経験はそこそこあるのですが、ゴジラシリーズの経験を大いに欠いていて、過去にちゃんと見た作品は1作しかありませんので、その辺りに限界のあることは事前にお断りしたいと思います。ゴジラを知らん奴の『シン・ゴジラ』記事なんぞ読むか、という方はどうぞお戻りください。



 本編の冒頭部、東京湾に浮かんだ無人の船の謎、これは『ゴジラ』(1984年)の序盤にあったシーンとそっくりじゃないか、と1984年版しか観たことのない当方はまず驚きました。これは多分意図的なのではないかと思います。

 そうするとその後の首相官邸に飛んで、首相や閣僚クラスの会議が続くという展開は、やはり小林桂樹演じる首相や鈴木瑞穂演じる外務大臣の登場する1984年版とどことなく共通するなあと思ってもいたのですが、更に観ていくと後述するように、1984年版と色々対比があって面白いということが分かってきました。あ、1984年版も『シン・ゴジラ』を楽しんだ人には面白い作品だろうと思いますので、私の記事で部分的紹介を読むより観てみて下さい。

会議シーンはなかなか面白かったのですが、『リーガル・ハイ』の堺雅人演じる弁護士ぐらいならばともかく、「早口」と単純化して批判出来るかというと疑問です。


赤坂首相補佐官の台詞にあるように、前半を通して観れば、首相と内閣の対応は確かに「最善」だったのではないかと感じます。防衛や防災ではなく経済・金融系のノンフィクションで、小泉政権以前の橋本政権時代が対象ですが、西野智彦軽部謙介『検証 経済失政』岩波書店、1999年辺りを読むと、関係閣僚会議というのは、金融危機のような慌ただしい問題についてであっても、もっとセレモニーという感があります。

戦争指導では上級指導部に、もっとあやふやで、かつとめどもなく情報が溢れてくるという事態も起こるのではないかという点を考えると、少なくとも現場の情報自体が正確に、そして取捨選択されて上って来ているという辺りは、その先で消極性や硬直性が現れているにしても、これはかなりまともに官僚制が機能している描写だったと思います。

閣僚役では官房長官役の柄本明がいかにも老練な感じで、個人的には『特捜最前線』の紅林刑事でおなじみの横光克彦環境大臣役だったことに、御本人が民主党政権で環境副大臣だったのと閣僚一歩手前で落選して俳優に復帰したのを知っていたので驚きました。

課長補佐の尾頭さんの喋り方、あの演出はひょっとして庵野さん自身の反映なのかなと。以前『トップをねらえ!』のボックス特典か何かの座談会で、声優の川村万梨阿が収録当時を振り返って、ユング役として軍人台詞をどう演技するか庵野監督に相談したら、監督自身が「ナントカカントカ(バシバシ)」と専門用語混じりの早口口調を実演したという笑い話をしていましたけれど。

最初に上陸した「巨大不明生物」は顔の違いからゴジラじゃないのかな、と読んだ当方は見事にゴジラの進化という脚本に騙されてしまいました。

マンションを破壊するシーンで、マンションの室内と、マンションの外見とを交互に撮っていく、というのは特撮技術の伝統的な手法を敢えて取り入れたカットだったのでしょうか。『トップをねらえ!』の宇宙戦闘を、特撮のピアノ線を使うかのように意図して描いた庵野-樋口真嗣コンビだけに。

最初の上陸の後、「復興」と警戒が話題になりつつも、ごく日常的な光景が戻っている、あのシーンはとても印象に残っています。残留放射性物質の描写も含めて、3.11の後の、3.12の原発での爆発が発生するまでのあの1日を連想させられるところですし、関東大震災の後も東京大空襲の後も、そして原発事故の後もそこに居続けようとしてきたのが日本的ということになるのでしょうか。しかし海上自衛隊はここでゴジラ捜索に従事し、それも再上陸直前まで発見出来ずという描写くらいしかなかったのはどうも見せ場に乏しかったような。

この映画はほぼ東京の都心部を中心に、首都圏の限られた領域を舞台としています。官邸1階で交わされる、結局地方ではなく東京か、という台詞はその辺りを敢えて表現していますし、作中描写されるのは富士山や伊豆大島といった自然ではなく都市に限られるのはなかなか面白いところだと思いました。

その点では、鎌倉→洋光台→武蔵小杉と、まさか神奈川県の横浜・川崎が出てくるとは予想外でしたが、しかし結局東京への行程に過ぎないというのは巨大ながらも東京に従属する神奈川への(以下略)。

多摩川での交戦シーンは、戦車隊も指揮所も犠牲を出しながらも後退し続けていく、敗退しても避難誘導にあたろうと、「特攻」はしないという描写になっている辺りが、単純な軍事・自衛隊賛美でないところだろうと感じました。最終決戦も含めて、決死隊は出すが特攻隊は出さない、という作品かと。
ただまあ「残弾なし」になって敗退確定というのは、戦略的ないし補給的には軍事作戦としてどうなのかしら、とも。

何でゴジラは東京のそれも中枢に、という趣旨の発言はなかなかメタな台詞で、1984年版では同じく夜間に新宿の高層ビル群に現れる(まだ都庁はない)のでした。

官房長官の台詞から、危険な地上行の矢口以下が生き残り、首相たちが犠牲になるのはまあ予想が付くのですが、あっさりヘリが撃墜されて1カットで終わるとは予想外でした。

あとは誰も客のいない家電量販店で、店員が一人テレビの記者会見を観ていると停電してしまうというのは、臨時閉店もしなければ、会社から避難指示も出ていないのか、といういかにも日本の企業社会らしい描写ではありました。

この夜のシーンのゴジラは、焼き尽くすという破壊が巨神兵あるいはラピュタの要塞でのロボット兵といった感もあったような。

ここまでが前半で、後半が活動停止したゴジラへの対応を巡るあれこれなのですが、後半ゴジラへの熱核兵器の使用の是非が安保理常任理事国と日本政府との対立の中で主題となってくると、ああこれは『帰ってきたウルトラマン』も意識していたのかな、と感じたところです。

DAICON FiLM版『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進司令』でも、逃げ遅れた市民のいる都市部での怪獣への核攻撃の是非は描写された訳ですが、東京でとなるとこれはもう『帰ってきたウルトラマン』自体の第5・6話ととても似てきます。東京自体を破壊しかねないスパイナーの使用に踏み切ろうとする地球防衛庁長官に対し、最後の攻撃機会を要求するMAT、都民の緊急避難という構図は敢えてそっくり似せたのだろうと思います。

その文脈に基づくと、前半で攻撃ヘリが射線上に人が居る、という理由で攻撃を中止するシーンも、子どもの存在を理由に攻撃を中止して岸田隊員から批判される郷秀樹とダブって見えてくるものですし、自衛隊の通常兵器による攻撃→米軍の空爆→熱核兵器使用の検討というエスカレーションも、MATの通常攻撃→MATのMN爆弾による攻撃→地球防衛庁のスパイナー使用の検討、と潔いくらい見事に符合していました。

1984年版はいかにも冷戦下の作品で、冒頭は日本近海で極秘活動中の米ソ原潜がゴジラ接触する訳ですし、米ソ対立もソ連による日本国内での工作も描写されていましたが、他国首脳も小林桂樹演じる首相から自国の都市での核兵器使用を決断できますかという説得には応じていたのに対し、今回はたとえニューヨークでも核兵器を使用すると言われたと赤坂が述べている辺り、超大国同士の対立がなくなった一方である意味より容赦の無い、自国内も含めたテロとの戦争を反映したかのような厳しさが漂っているのも、1984年版との対比で面白かった辺りです。

1984年版では主人公の新聞記者やヒロインである沢口靖子の棒読みで有名な科学者の妹などが巻き込まれてゴジラと対峙する、そして武田鉄矢演じる新宿の浮浪者のような一般人の描写も存在した訳ですが、本作では徹頭徹尾、政治家か官僚か自衛官等々として向き合っているのも対称的です。國村隼演じる統合幕僚長の言う「仕事ですから」の一言が当てはまる登場人物しか描写しないという、これはこれでかなり割り切った構成でした。集団で一致団結して、という側面が強調されているのは間違いないんですが、その集団というのは普通の市民を含まない、かなり特殊な専門家の集団ということになる訳です。

最終決戦に関しては、無人在来線爆弾を律儀に中央線・山手線・京浜東北線それぞれの塗装の車両を走らせるという辺りが、リアリティがあるかは別にしてこれも日本的ということなのかと感じます。無人在来線爆弾というアイデア自体の意表性を強調したかったのか登場シーン自体はごく短かったのが残念で、どうせなら戦車や攻撃ヘリぐらい長々と描写して、突入前にハプニングの1つでもあってぎりぎり間に合った、という風にしたらもっと良かったのに、とは思ったところです。

特撮として、どうもこの無人在来線爆弾車にしても戦車にしても攻撃ヘリにしても、軽快さやスマートさはあっても重厚感がいまいち乏しいと感じるのは、サンダーバードに毒された身だからでしょうか。そういえば樋口監督の『ローレライ』を観た時も、『U・ボート』の圧迫感や重苦しさがないなと感じたものでしたが。

音楽については、伊福部昭の初代ゴジラの音楽がエンディングも含めて用いられていた点は原点回帰がはっきりと出ていた点で、あとはエヴァンゲリオンの音楽を『踊る大捜査線』の特捜本部みたいな会議室のシーンで流しているのが面白いところでした。『007 ロシアより愛をこめて』に始まり、今度はゴジラですか。

最終決戦の現場指揮所が北の丸公園科学技術館の屋上、ゴジラは丸の内の東京駅の周辺、となると見事に皇居をかすめた位置関係なのですが、天皇や皇居については全く触れられないというのが、これも日本的なるものということなのでしょうか。



















 

『植物図鑑』(2016年)

  • 『植物図鑑』(2016年)

映画館で観たい洋画がなくて、偶々チラシで高畑充希主演なのを知っていた程度で観た作品。

余談ながら、ハイクでも書きましたが、映画の宣伝で高畑を出演させたバラエティ番組に、やはりゲストで石原慎太郎を出演させた日本テレビは何をやっているんだか。

何が良いって、主人公の住む団地の部屋の描写でしょうか。主人公の職業がそもそも不動産会社の営業だとか改装したとか、理由はついていて内装はそう古臭くないけれど、扉とか窓枠とかがいかにも標準的な団地建築で、団地映画という文脈では一見の価値があるのかも。

個人的には、これは何だか『耳をすませば』(1995年)を連想するなあと、団地という点に限定せず。アニメ映画が敢えて恋愛映画を作っていたのか、恋愛映画がアニメ映画風になっているのかは知りませんが。

中盤で主人公が男と寝るシーンで、ああこれはファンタジーじゃなくて恋愛ものなのね…と感じた程度にはファンタジーめいているだけに、後半主人公が消えた男を探し求めて挙句警察沙汰になるシーンが、妙に現実味がありました。現在だと月島雫は図書館の貸出カードで個人情報をどうこう出来ないだろうし、天沢聖司はストーカーとして突き出されかねないなあと。

男の素性は推理小説的には中盤で大体想像がつく訳で、最後の再会も少しひねった割には…そもそも西武線沿線から横浜はタクシーでも遠いんですがね…。後は主人公の勤務先の事務所も駅前の商店街みたいなところにあるのか、お弁当食べている高層ビル街みたいなところにあるのか、街の描写もそんなにリアリティはありません。

高畑は、「いい日旅立ち」を歌う時の声などはもっと重いのに、女優としてのモノローグだと妙に甘ったるい声が多かったり。主人公は親の再婚という影があるにしても、そう普通の恋愛から遠いようにも見えない辺りも、まあ人気女優なので仕方がないのでしょうが。部屋の奥に2・30冊文庫本が置かれていて、そこそこ本を読む人であるという描写は少し意外で、後々展開されるのかしらと思ったら単なる背景の小道具でした。

はてなブックマーク別館 稲田朋美防衛大臣の就任会見に関する質問

 稲田朋美防衛大臣の8月4日午後の就任会見については、各種媒体で報道も為されているし、防衛省側でも会見の文字起こしを防衛省・自衛隊:防衛大臣臨時記者会見 平成28年8月4日(17時14分~17時42分)として公開している。

 既に稲田朋美防衛大臣が、誤解を払拭したいと語った直後、持論の封印に失敗 - 法華狼の日記という記事で、id:hokke-ookamiさんも全般的な問題点と、稲田防衛相の「百人斬り」事件に関する認識について批判を加えている。

 はてなブックマーク上でも既に数か所で議論が為されているが*1、稲田防衛相への歴史認識関連の質問を行ったメディアを批判し大臣の回答を評価する意見まで見られ、当方としてはむしろ各メディアの質問はなお不足気味であるという前述のhokke-ookamiさん記事に賛同しているくらいなので、以下では思いつく関連質問を数点あげ、稲田防衛相への疑問を提示しておく。


Q:大臣は、日中戦争から第2次世界大戦にいたる戦争は、侵略戦争だと思いますか。自衛のための戦争だと思いますか。アジア解放のための戦争だと思いますか。
A:歴史認識に関する政府の見解は、総理、官房長官にお尋ねいただきたいと思います。防衛大臣として、私個人の歴史認識について、お答えする立場ではありません。
Q:防衛大臣としての見解を伺いたい。
A:防衛大臣として、お答えする立場にはないと考えております。

では、防衛省自衛隊には歴史認識はないのでしょうか。完全に「総理、官房長官」の「政府の見解」と同一であるとお考えなのでしょうか。

そして、「政府の見解」で防衛省自衛隊内部の歴史認識を仮に統一するのならば、その指揮監督に当たるのは防衛大臣の職務権限に含まれるのではないですか。

防衛大臣は、安全保障政策及び自衛隊の指揮監督にあたり、当然安全保障政策の歴史や自衛隊の歴史についての認識を踏まえて政策の立案・実行に当たるべき地位と考えますが、十五年戦争に関する歴史認識はなぜ防衛大臣にとって不要な、「お答えする立場にはない」ような認識に当たるとお考えなのでしょうか。

もっと具体的な事例を挙げるならば、過去に田母神俊雄航空幕僚長が、統合幕僚学校長を務めていた際に同校で自衛官向けに「歴史観・国家観」という講座を設け、その講座に「新しい歴史教科書をつくる会」の関係者などを講師に招き、明らかに「政府の見解」と異なる内容を自衛隊内で、勤務時間中に、公金を用いて自衛官に広めていたということが過去に実際にありました。

今後防衛大臣として、こういった事例についてはどう対処するおつもりなのでしょうか。「政府の見解」は首相、官房長官から発表されているから、防衛大臣歴史認識とかかわる立場ではないからと静観されるおつもりでしょうか。

統合幕僚学校防衛大学等の自衛隊内の各種学校防衛研究所での研修・戦史教育について、防衛大臣文民統制の責任者として、「客観的事実」に基づき、勿論大臣の「個人の歴史認識」を単純に反映させるのではなく、学術研究の成果や社会通念をふまえ公正中立なものとするように監督する必要があるとはお考えにならないのでしょうか。

Q:かつて、総理大臣が一国のリーダーとして、堂々と公式参拝するべきだというふうにおっしゃっていましたけれども、それとは考え方が変わったということですか。
A:変わったというより、本質は心の問題であるというふうに感じております。
Q:そのときには、総理大臣は行くべきだというふうにおっしゃっていた訳ではないですか。心の問題だというふうにおっしゃっていないではないですか。
A:そのときの私の考えを、ここで申し上げるべきではないというふうに思います。また、一貫して、行政改革担当大臣、さらには政調会長、もうずっとこの問題は心の問題であって、行くとか、行かないとかは、お話しはしませんけれども、安倍内閣の一員として適切に判断をして行動してまいりたいと思っております。

えーと国会会議録検索システムで私の調べたところ、2010年10月に稲田朋美衆議院議員御自身が衆議院本会議で、当時の菅直人首相に代表質問した際には、菅内閣の閣僚が誰も靖国神社に参拝しなかったことも含めて同内閣の安全保障政策を批判されていたのですが、あれはなんだったんでしょうか(国会会議録検索システム - メッセージ)。

最後に、今回の尖閣問題は、日本国民と政治家にさまざまな教訓を残しました。政治の究極の目的は国家国民の安全保障にあるということ、そして、領土を守るためには国民の覚悟が必要ということです。
 その意味で、総理が、六月の所信表明演説で、相手国に受動的に対応するだけでは外交は築かれない、時には自国のために代償を払う覚悟ができるか、国民一人一人がこうした責任を自覚し、それを背景に行われるのが外交であると言われたのは、まさしく言葉としては正しいと思います。しかし、総理は行動が伴っていません。有言不実行なのです。
 我が国の尖閣諸島の領有権を守るためには国民が自国のために代償を払わなきゃならないこともある、その覚悟なくして領土は守れません。たとえ尖閣日米安保の対象でも、自主防衛の気概なくして日米安保は意味がないということです。
 ことしの八月十五日、菅総理及び菅内閣の閣僚は、ただ一人も靖国神社参拝をしませんでしたが、いかなる歴史観に立とうとも、国のために命をささげた人々に感謝と敬意を表することができない国に、モラルも安全保障もありません。
 要は、言葉ではなく、守る意思と覚悟の問題です。その意思も覚悟もない菅内閣にこの国の主権も領土も国民の生活も国家の名誉も守ることができないことが明らかになった今、総理がなすべきことは、内閣を総辞職するか、一刻も早く衆議院を解散し、国民に信を問うことであることを申し上げ、私の質問を終わります。(拍手)

稲田大臣と安倍晋三政権にとっては「心の問題」で、民主党菅直人内閣にとっては内閣総辞職に値するだけの「モラル」と「安全保障」の問題であると、稲田大臣はお考えなのでしょうか。それでしたら、自民党政権と当時の民主党政権とに対するダブルスタンダードといいますか、あるいは御自身の本会議質問が「対案のない無責任な野党の批判」だったということにはならないのでしょうか。

また同じく、稲田大臣は野党議員であられた2011年7月12日に、当時の野田佳彦財務大臣に対して、総理大臣就任後は靖国神社参拝を行うのかどうか明言せよと、財務金融委員会で質問されたことがおありかと存じますが、いかがでしょうか(国会会議録検索システム - メッセージ)。

○稲田委員 いや、個人的にというか、総理になられたら集団的自衛権の行使は認めると明言をいただきたいと思います。
 今、政府の見解は、集団的自衛権は持っているけれども行使できないという、ばかげた解釈をいたしております。持っているものなら行使できなければならないし、日本が主権国家である以上、自衛権があり、集団的自衛権自然権として持っているものだからであります。
 では、最後に一問。
 野田大臣は、総理になられたら靖国神社に参拝されますか。(発言する者あり)

○野田国務大臣 なっていません、私、総理ではありませんので、そういう前提に立った御質疑にはお答えすることはできませんが、個人的には、私はいわゆる私的には何度も行ったことがありますが、政府の立場でそれをやることがいいかどうかについては、私は慎重な立場にならざるを得ないというふうに思います。

○稲田委員 最後の質問だけ、がっかりいたしました。
 仮定であろうとなかろうと、自分が総理になったら靖国神社に参拝するかどうか、政治家だったらこれは明確に答えなければならない問題だと私は思っております。
 また、たとえいかなる歴史観に立とうとも、自分の国のために命をささげた人に対して感謝と敬意を表することができない国のモラルも安全保障もないということを申し上げて、私の質問を終わります。
 きょうはどうもありがとうございました。

まあ人間だれしも間違いや成長ということはございますが、2016年に防衛大臣になられた稲田大臣にとっては明言すべきでないとお考えのことを、2011年に野党議員だった際は当時の野田財務大臣に「明確に答えなければならない問題」だと御批判されたことについては、現在どうお考えでしょうか。5年前の御自身の質問をお忘れになられたか、或いは覚えておられるのでしょうか。

Q:別件になるのですけれども、先ほど沖縄の件で、大臣は辺野古が唯一の解決策だというふうに従来の政府の見解を示されました。ただ、なかなか移設は進んでいない状況があると、この根本的な原因はどこにあるとお考えでしょうか。
A:まずは、普天間辺野古移設が決められた経緯でありますけれども、この問題の本質は、普天間飛行場が世界一危険な飛行場と言われ、まさしく市の中心部、ど真ん中、小学校のすぐ近くにあるということだというふうに思っております。そういったこの問題の本質を、やはり住民の皆様方にしっかりと説明をしていくということが必要であろうと思っております。そして、大きな議論の末に、裁判所で国と県が和解をして、和解条項が成立したわけでありますので、その和解条項に基づいて、今、国も提訴し、さらには協議も進めて行くのだということも説明した上で、誠実に対処していく必要がある、引き続き粘り強く取組んでいく必要があるというふうに思っております。

その「世界一危険な飛行場」が普天間に建設されたのは、十五年戦争の結果沖縄戦が起こり、沖縄を米軍が占領したという経緯による訳ですから、やはり防衛大臣の職務の前提には歴史認識は必要なのではないかと考えますが、それでもお答えする立場にないとお考えでしょうか。

Q:海外メディアは、大臣の歴史問題に関しまして、南京事件について御見解がいろいろあると思うのですが、聞きたいということと、防衛省の正式な見解では、非戦闘員の殺害、略奪行為をやったことは否定できないと。正しいか、いろいろな説はあるのでどれかとは整理はできませんとあるのですけれども、この見解についてはどう御覧になられますか。
A:私が、弁護士時代取組んでいたのは、南京大虐殺の象徴的な事件といわれている百人切りがあったか、なかったか。私は、これはなかったと思っておりますが、そういったことを裁判として取り上げたわけであります。それ以上の歴史認識については、ここでお答えすることは差し控えたいと思います。
Q:外務省の方の見解は、これは政府としての正式な見解ではないと思うのですけれども、どうお考えですか。
A:外務省の見解を申し上げていただけますか。
Q:南京入城の時に、非戦闘員が殺害、略奪行為があったことは否定できないと思われていますと。具体的なニュースについては、諸説あるので政府はどれが正しいか言えませんと。歴史のQ&Aのホームページ、外務省に書いてあるのですけれども、これはいかがでしょうか。
A:それは、三十万人、四十万人という数が、南京大虐殺の数として指摘をされています。そういった点については、私は、やはり研究も進んでいることですので、何度も言いますけれども、歴史的事実については、私は、客観的事実が何かということが最も重要だろうというふうに思います。
Q:この見解については、虐殺があったと。略奪行為。民間人の虐殺であったと。数は分からないと。この認識だと思うのですけど。これはお認めになるのですか。
A:数はどうであったかということは、私は重要なことだというふうに思っております。それ以上に、この問題について、お答えする立場にはないというふうに思っています。

南京事件については、既に「百人斬り」関連は別記事があるので省きますが、「三十万人、四十万人という数が、南京大虐殺の数として指摘をされています」という部分についてです。稲田大臣は、近年の日本の歴史学での研究の成果として、歴史研究者たちが「少なくとも15万人以上」という数字を挙げ、教科書叙述等にも反映させていることはご存知でしょうか。

御存知ないのでしたら、なぜ「重要なこと」についてかつて訴訟まで担当されたにもかかわらず学んでおられないのか、御存知の上で敢えて「三十万人、四十万人」という現在の通説よりも多い数字を挙げられるのか、また御自身はずばり15万人以上と考えておられるのか、それよりも少ないと考えておられるのか、どちらでしょうか。
そしてその御自身のお考えの根拠はどのようなものでしょうか。
また大臣御自身が、記者からの秦郁彦氏を挙げての質問に答えておられますが、秦氏の少なくとも数万人の犠牲者がいたとする見解についてはどのようにお考えでしょうか。

Q:慰安婦問題に関して聞きたいのですけれども、2007年に、事実委員会が、報告をアメリカの新聞に出したのですけれど、そのときは、大臣は賛同者として名前をつけたのですけれども、慰安婦は、強制性はなかったとコメントもあったので、今の考え方は変わっていますか。
A:慰安婦制度に関しては、私は女性の人権と尊厳を傷つけるものであるというふうに認識をいたしております。今、そのワシントンポストの意見公告についてでありますが、その公告は、強制連行して、若い女性を20万人強制連行して、性奴隷にして虐殺をしたというような、そういった米国の簡易決議に関連してなされたものだというふうに思っております。いずれにいたしましても、8月14日、総理談話で述べられているように、戦場の影に深く名誉と尊厳を傷つけられた女性達がいたことを忘れてはならず、20世紀において、戦時下、多くの女性達の尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を胸に刻みつけて、21世紀は女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしていくという、その決意であります。
Q:強制性はあったということですか。
A:そういうことではありません。そういうことを言っているのではありません。

これは防衛省の事務の方、「米国の簡易決議」ではなく「米国の下院決議」ではないでしょうか(8月6日22時過ぎ閲覧時点)。2007年の米国下院121号決議のことを稲田大臣は指しておられたのかと思いますので、大臣御自身の表現なのか、文字起こしが字句通りなのか、確認された方が宜しいかと存じます。

その上で、2007年のアメリカの下院決議は、別に「強制連行して、若い女性を20万人強制連行して、性奴隷にして虐殺をした」と書いている訳ではないということは、既に相当広く論じられている点で、下院決議の内容理解自体に問題があるのではないかと思われますがいかがでしょうか。

そもそも決議には「20万人」という数字は言及されておりませんし、「強制連行」という表現もありません(性奴隷制を強制した、という表現です)*2

これはいわゆる藁人形叩きというやつで、下院決議の従軍慰安婦認識がとんでもないかのように見せて御自身の御認識を正当化されようとはなさっておられませんか。
下院決議のいう強制性を認めるか否かという点が記者の質問にもある強制性の論点だろうと思われるのですが、「強制連行」と「強制性」の違いについてはいかがお考えでしょうか。



以上、私個人と致しましては、まだまだお聞きしてみたい質問は多いのですが、取りあえずはまずは会見に関連して取りあえず挙げておきます。

*1:例えば先のid:hokke-ookamiさん記事のブックマークはてなブックマーク - 稲田朋美防衛大臣が、誤解を払拭したいと語った直後、持論の封印に失敗 - 法華狼の日記や、ロイターの記事へのブックマークはてなブックマーク - 稲田防衛相、侵略戦争だったかどうか明言せず 歴史認識問われ | ロイターなど

*2:はてなではこちらに原文がありますし2007年1月31日付の米下院決議案121号 - 誰かの妄想・はてなブログ版、「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター編『「慰安婦」バッシングを越えて 「河野談話」と日本の責任』大月書店、2013年の巻末資料p2に全文訳が掲載されています。