『シン・ゴジラ』(2016年)

特撮、あるいは庵野秀明という人について少しでも知っている人は、観て損はないと明言出来ますし、こういう作品は映画館で何も知らずに観るのが面白いだろうと思いますので、以下はいわゆるネタバレばかりですから、御覧になってからお読みください。



 さて、御覧になっていかがでしたでしょうか。

 いやー凄かったですね、海上自衛隊護衛艦隊のみならず戦艦大和を引き上げての大海戦。まあゴジラ三原山に転倒していくのはお約束でしょうか。


 …という記述が大嘘だと分かった方のみ以下の記事をお読み下さい。二重に警告しましたので、宜しくどうぞ。


 最初に書いておくと、昨年『ガールズ&パンツァー』の記事に、メタで面倒くさい記事であるという御批判を頂戴いたしましたが、映像表現に関してボンクラな当方は、基本的にこれまでに観た映像作品に基づいた「メタ」で「面倒くさい」見方でしか映画について書けないというところがあるのは、まあ自覚しております。

 従って今回もそういう記事になることははっきりしている訳ですが、ところで『シン・ゴジラ』という作品は、かなり意図的に過去の特撮作品を「メタ」に取り入れているのが特色の一つです。

 冒頭、現在の「東宝」のロゴが出た後、初代ゴジラの頃の東宝のロゴが改めて出てから題字が現れる、この時点で特撮マニアの申し子たる庵野秀明らが、過去の特撮作品の文脈の上にオマージュとして新作を作った、そういう意図が示されていました。

 そこで敢えてガルパンの時の書き方を踏襲して書こうと思いますが、実は当方は後述するようにウルトラシリーズの経験はそこそこあるのですが、ゴジラシリーズの経験を大いに欠いていて、過去にちゃんと見た作品は1作しかありませんので、その辺りに限界のあることは事前にお断りしたいと思います。ゴジラを知らん奴の『シン・ゴジラ』記事なんぞ読むか、という方はどうぞお戻りください。



 本編の冒頭部、東京湾に浮かんだ無人の船の謎、これは『ゴジラ』(1984年)の序盤にあったシーンとそっくりじゃないか、と1984年版しか観たことのない当方はまず驚きました。これは多分意図的なのではないかと思います。

 そうするとその後の首相官邸に飛んで、首相や閣僚クラスの会議が続くという展開は、やはり小林桂樹演じる首相や鈴木瑞穂演じる外務大臣の登場する1984年版とどことなく共通するなあと思ってもいたのですが、更に観ていくと後述するように、1984年版と色々対比があって面白いということが分かってきました。あ、1984年版も『シン・ゴジラ』を楽しんだ人には面白い作品だろうと思いますので、私の記事で部分的紹介を読むより観てみて下さい。

会議シーンはなかなか面白かったのですが、『リーガル・ハイ』の堺雅人演じる弁護士ぐらいならばともかく、「早口」と単純化して批判出来るかというと疑問です。


赤坂首相補佐官の台詞にあるように、前半を通して観れば、首相と内閣の対応は確かに「最善」だったのではないかと感じます。防衛や防災ではなく経済・金融系のノンフィクションで、小泉政権以前の橋本政権時代が対象ですが、西野智彦軽部謙介『検証 経済失政』岩波書店、1999年辺りを読むと、関係閣僚会議というのは、金融危機のような慌ただしい問題についてであっても、もっとセレモニーという感があります。

戦争指導では上級指導部に、もっとあやふやで、かつとめどもなく情報が溢れてくるという事態も起こるのではないかという点を考えると、少なくとも現場の情報自体が正確に、そして取捨選択されて上って来ているという辺りは、その先で消極性や硬直性が現れているにしても、これはかなりまともに官僚制が機能している描写だったと思います。

閣僚役では官房長官役の柄本明がいかにも老練な感じで、個人的には『特捜最前線』の紅林刑事でおなじみの横光克彦環境大臣役だったことに、御本人が民主党政権で環境副大臣だったのと閣僚一歩手前で落選して俳優に復帰したのを知っていたので驚きました。

課長補佐の尾頭さんの喋り方、あの演出はひょっとして庵野さん自身の反映なのかなと。以前『トップをねらえ!』のボックス特典か何かの座談会で、声優の川村万梨阿が収録当時を振り返って、ユング役として軍人台詞をどう演技するか庵野監督に相談したら、監督自身が「ナントカカントカ(バシバシ)」と専門用語混じりの早口口調を実演したという笑い話をしていましたけれど。

最初に上陸した「巨大不明生物」は顔の違いからゴジラじゃないのかな、と読んだ当方は見事にゴジラの進化という脚本に騙されてしまいました。

マンションを破壊するシーンで、マンションの室内と、マンションの外見とを交互に撮っていく、というのは特撮技術の伝統的な手法を敢えて取り入れたカットだったのでしょうか。『トップをねらえ!』の宇宙戦闘を、特撮のピアノ線を使うかのように意図して描いた庵野-樋口真嗣コンビだけに。

最初の上陸の後、「復興」と警戒が話題になりつつも、ごく日常的な光景が戻っている、あのシーンはとても印象に残っています。残留放射性物質の描写も含めて、3.11の後の、3.12の原発での爆発が発生するまでのあの1日を連想させられるところですし、関東大震災の後も東京大空襲の後も、そして原発事故の後もそこに居続けようとしてきたのが日本的ということになるのでしょうか。しかし海上自衛隊はここでゴジラ捜索に従事し、それも再上陸直前まで発見出来ずという描写くらいしかなかったのはどうも見せ場に乏しかったような。

この映画はほぼ東京の都心部を中心に、首都圏の限られた領域を舞台としています。官邸1階で交わされる、結局地方ではなく東京か、という台詞はその辺りを敢えて表現していますし、作中描写されるのは富士山や伊豆大島といった自然ではなく都市に限られるのはなかなか面白いところだと思いました。

その点では、鎌倉→洋光台→武蔵小杉と、まさか神奈川県の横浜・川崎が出てくるとは予想外でしたが、しかし結局東京への行程に過ぎないというのは巨大ながらも東京に従属する神奈川への(以下略)。

多摩川での交戦シーンは、戦車隊も指揮所も犠牲を出しながらも後退し続けていく、敗退しても避難誘導にあたろうと、「特攻」はしないという描写になっている辺りが、単純な軍事・自衛隊賛美でないところだろうと感じました。最終決戦も含めて、決死隊は出すが特攻隊は出さない、という作品かと。
ただまあ「残弾なし」になって敗退確定というのは、戦略的ないし補給的には軍事作戦としてどうなのかしら、とも。

何でゴジラは東京のそれも中枢に、という趣旨の発言はなかなかメタな台詞で、1984年版では同じく夜間に新宿の高層ビル群に現れる(まだ都庁はない)のでした。

官房長官の台詞から、危険な地上行の矢口以下が生き残り、首相たちが犠牲になるのはまあ予想が付くのですが、あっさりヘリが撃墜されて1カットで終わるとは予想外でした。

あとは誰も客のいない家電量販店で、店員が一人テレビの記者会見を観ていると停電してしまうというのは、臨時閉店もしなければ、会社から避難指示も出ていないのか、といういかにも日本の企業社会らしい描写ではありました。

この夜のシーンのゴジラは、焼き尽くすという破壊が巨神兵あるいはラピュタの要塞でのロボット兵といった感もあったような。

ここまでが前半で、後半が活動停止したゴジラへの対応を巡るあれこれなのですが、後半ゴジラへの熱核兵器の使用の是非が安保理常任理事国と日本政府との対立の中で主題となってくると、ああこれは『帰ってきたウルトラマン』も意識していたのかな、と感じたところです。

DAICON FiLM版『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進司令』でも、逃げ遅れた市民のいる都市部での怪獣への核攻撃の是非は描写された訳ですが、東京でとなるとこれはもう『帰ってきたウルトラマン』自体の第5・6話ととても似てきます。東京自体を破壊しかねないスパイナーの使用に踏み切ろうとする地球防衛庁長官に対し、最後の攻撃機会を要求するMAT、都民の緊急避難という構図は敢えてそっくり似せたのだろうと思います。

その文脈に基づくと、前半で攻撃ヘリが射線上に人が居る、という理由で攻撃を中止するシーンも、子どもの存在を理由に攻撃を中止して岸田隊員から批判される郷秀樹とダブって見えてくるものですし、自衛隊の通常兵器による攻撃→米軍の空爆→熱核兵器使用の検討というエスカレーションも、MATの通常攻撃→MATのMN爆弾による攻撃→地球防衛庁のスパイナー使用の検討、と潔いくらい見事に符合していました。

1984年版はいかにも冷戦下の作品で、冒頭は日本近海で極秘活動中の米ソ原潜がゴジラ接触する訳ですし、米ソ対立もソ連による日本国内での工作も描写されていましたが、他国首脳も小林桂樹演じる首相から自国の都市での核兵器使用を決断できますかという説得には応じていたのに対し、今回はたとえニューヨークでも核兵器を使用すると言われたと赤坂が述べている辺り、超大国同士の対立がなくなった一方である意味より容赦の無い、自国内も含めたテロとの戦争を反映したかのような厳しさが漂っているのも、1984年版との対比で面白かった辺りです。

1984年版では主人公の新聞記者やヒロインである沢口靖子の棒読みで有名な科学者の妹などが巻き込まれてゴジラと対峙する、そして武田鉄矢演じる新宿の浮浪者のような一般人の描写も存在した訳ですが、本作では徹頭徹尾、政治家か官僚か自衛官等々として向き合っているのも対称的です。國村隼演じる統合幕僚長の言う「仕事ですから」の一言が当てはまる登場人物しか描写しないという、これはこれでかなり割り切った構成でした。集団で一致団結して、という側面が強調されているのは間違いないんですが、その集団というのは普通の市民を含まない、かなり特殊な専門家の集団ということになる訳です。

最終決戦に関しては、無人在来線爆弾を律儀に中央線・山手線・京浜東北線それぞれの塗装の車両を走らせるという辺りが、リアリティがあるかは別にしてこれも日本的ということなのかと感じます。無人在来線爆弾というアイデア自体の意表性を強調したかったのか登場シーン自体はごく短かったのが残念で、どうせなら戦車や攻撃ヘリぐらい長々と描写して、突入前にハプニングの1つでもあってぎりぎり間に合った、という風にしたらもっと良かったのに、とは思ったところです。

特撮として、どうもこの無人在来線爆弾車にしても戦車にしても攻撃ヘリにしても、軽快さやスマートさはあっても重厚感がいまいち乏しいと感じるのは、サンダーバードに毒された身だからでしょうか。そういえば樋口監督の『ローレライ』を観た時も、『U・ボート』の圧迫感や重苦しさがないなと感じたものでしたが。

音楽については、伊福部昭の初代ゴジラの音楽がエンディングも含めて用いられていた点は原点回帰がはっきりと出ていた点で、あとはエヴァンゲリオンの音楽を『踊る大捜査線』の特捜本部みたいな会議室のシーンで流しているのが面白いところでした。『007 ロシアより愛をこめて』に始まり、今度はゴジラですか。

最終決戦の現場指揮所が北の丸公園科学技術館の屋上、ゴジラは丸の内の東京駅の周辺、となると見事に皇居をかすめた位置関係なのですが、天皇や皇居については全く触れられないというのが、これも日本的なるものということなのでしょうか。