読んだ本

 
 物語は9年前の、或る交響楽団と或る少女との間で起きた信じがたい出来事から始められる。当時その場に居合わせた少年は不思議な経験を忘れられないまま、現在では音楽大学に入学しヴァイオリンを学んでいる。新入生の彼はかつて彼を驚かせた少女と再会することになる。彼女も同じ音大の指揮科の新入生だったのだ。

 
 音大生という設定を十分に活かしている点に面白さがあるように思う。音大生ということはつまりは若手の音楽家ということでもあるから、『のだめカンタービレ』が途中からは音大生の物語ではなくなったことが示しているのかもしれないが、意識しないと音大生は若手の音楽家であることの記号として以上の意味を物語の中で持ち得なくなることも考えられる(『のだめカンタービレ』の場合は代わりに「留学生」という要素が濃くなっていったのでいちがいに学生という側面が無くなったとまでは言えないかもしれない)。しかし音大生は音楽家であると共に音楽を専攻している学生でもある訳で、この後者の部分も描かれている点がより広く学生一般の描写としても読むことが出来る可能性を生んでいるのではないかと思う。音大生ではなくその実像を余り良く知らない人間でも結構面白く読むことが出来てしまう理由はその辺りにあるのではないだろうか(そもそも「一般教養」の話が出てくる漫画自体がそう無いような)。ちなみに第1巻のあとがきによると作者自身「同ジャンル」の「化物タイトル」の存在を意識してはいたそうで、趣味を題材にする点も含めて消極的だったとのことだが、「同ジャンル」の作品に比べても前述のように独自色を良く出せていると思う。

 
 個人的に面白かったのは、何回も描かれるヴァイオリンの個人授業の場面。音を作る描写という点では物語の展開の中でも重要な場面となっていて、指導する側の講師の物語も掘り下げられると共に指導の様子を丁寧に描写している。音大と音大生に限らず、大学と大学生を描写した作品は数多いだろうけれども、大学生が専攻について学ぶ様子を具体的に描写した作品は意外に少ないのではないだろうかと思ったりした。山下和美天才柳沢教授の生活』は社会科学を専門とする大学教授の様子をしっかりと描写した作品の一つだろうが、柳沢教授の講義と卒論指導とゼミ合宿と学生との対話は描いていてもゼミそれ自体の様子は描いていない(思いつく範囲では、『マスターキートン』の回想シーンで描かれる、キートンがユーリ・スコット教授から考古学の指導を受ける場面がゼミに近いかもしれないがあれは単発の逸話に過ぎない)。
 
 
 それにしても、この話の登場人物たちは概して静かと言うか落ち着いているというか或る範囲内で動いている気がする。多少「ズレ」ている面があるにも関わらず、音楽以外のことに関してはごく常識的な印象を受けてしまう(ここのところ読んだ他の作品の登場人物たちの方が派手に「ズレ」ていたせいでもありそうだ)。そもそも音楽以外についての描写という物が少ない作品では在って、登場人物たちは大抵音楽を奏でているか聴いているか、或いは音楽について話しているか考えているか、いずれにしても音楽に関する言動を積み重ねていっている。日常生活や相互の人間関係に関する描写も無いことはないけれども(例えば食事。それから学生などの楽器毎専攻毎の差異や距離感にはこだわっているようだ)、それらも最終的には音楽の話に落ち着いているように思われる。その辺りからふと連想したのは水島新司ちばあきおの野球漫画、そのどこまでも野球に関する描写と構成が続く展開に似ているような気がしたりした。

 
 そして何時も強烈な光景を生み出し物語の先を切り開いていく謂わば天才だけではなくて、その天才に接しその世界についてゆこうとして苦しみながら進む人間も主人公に設定されていることも。物語の語り手として天才の姿を読者に提示する存在であると同時に単なる傍観者ではないという位置付けがあるからこその魅力なのだろうと思う。

 
 最後に蛇足で数点。各巻表紙の楽譜はそれぞれどの曲の物かなと。素人は良く分からない物で。
 それから第2巻のカバーの人物紹介で如月先生が「教授」となっていますけれど、教えるのが初めてという比較的若手の教員でも音大ではいきなり教授として雇用されるのでしょうか。まあ大学教員の人事はそれぞれの個別事例によって違うのでしょうけれど、読んでいる時は講師か准教授なのかと思って読んでいたので少し意外。

(追記 2012年2月22日)
何と作品名を間違えたまま載せていたのでお詫びして訂正します。…ただ完全に愚痴になりますけれどこれ程何回もタイプミスした作品名は初めてです。