加藤寛治日記と1929年の美保関滞在について

早いもので1年が過ぎてしまったけれど、DG-Lawさんが松江市美保関の旅館で発見された、加藤寛治の1929年の美保関滞在について
(http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/52299815.html)。

「しかし,加藤寛治ってひょっとして美保関事件の時の滞在なのでは……昭和4年だから違うか。逆に言ってよく泊まりに来たな。」
とはDG-Lawさんの感想で、それを読んだ私も全く同じような感想だった。そもそも私の場合、美保関と聞いても連合艦隊の演習事故しか浮かばなかったし、美保関事件を最初に知った阿川弘之『軍艦長門の生涯』上、新潮文庫、1982年(http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01498398艦隊これくしょんの波に乗ってしれっと復刊しないかな)では、事故時の連合艦隊司令長官である加藤と連合艦隊参謀長だった高橋三吉海軍少将については相当辛辣な書かれようであっただけに、つくづく良く泊まったものだという印象だった。なお高橋も責任を問われるどころか連合艦隊司令長官まで栄達しているのは、多少海軍に詳しい方ならご存知の話だろう。

そしてその記事のブックマークhttp://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dg_law/archives/52299815.html加藤寛治の日記でこの時の記事が見つかるかも…などと書いておいて早1年、繰り返すがいい加減な当方である。

さて加藤の日記が収録されているのは『現代史資料』の続編、伊藤隆他編『続・現代史資料 5 海軍 加藤寛治日記』みすず書房、1994年(http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN11217247)であり、当方は以前関東大震災時の記述を読んだことが在ったので、半ばあてずっぽで1929年の記事も収録されているだろうなどと述べたのだが、実際には「震災日誌」の次が「昭和四年」なので、結構収録範囲ぎりぎりであった。

1929年の加藤寛治日記は、1日当たりの記述はごく短い日も多い。例えば加藤が軍事参議官から軍令部長に就任した前後である1月22日の日記でも、

一月二十二日 火 fine 8pm親任式、鈴木〔貫太郎、大将〕侍従長と仝時なり。夕大臣邸にて軍事参議官会。此日昭和六年度までの補充計画に付閣僚連署の覚書を示さる

といった程度(前掲伊藤他編、76頁。〔〕は同書の註)。

加藤が美保関に出発する直前の記事には、「妙高にて軍縮関係者を招待する。大成功。但し財部の演説笑ひ物となる。」という、御存知の海軍軍縮条約を巡る艦隊派対条約派の対立を思わせるような少々おっかない記事もあったりするけれども(同書、83頁)、概して感情を交えない淡々とした記述が続いている印象だ。

なお偶々見かけた、「一月十六日 水 fine」の記事の中で、
国技館に相撲を見る。大番狂はせにて近来なき熱狂。」(同76頁)の部分は、相撲通のDG-Lawさんには誰の取組みか判別可能なのかもしれないけれども、註なしには当方には全く判別不能な部分だった。同日の記事の後半部分には丁寧な註が付いていて、珍田捨巳侍従長が死去してその後任問題が起こり、関連して斎藤実、安保清種、山下源太郎の三大将らの名前が書かれていることが読み取れるのと対称的だった。

さて、美保関滞在を含む8月4日からの加藤の日記を追うと、 

八月四日 日
出雲大社(参拝)を経て美保湾の艦隊に向ふ。
八・四五P発宝塚に向ふ。

八月五日 月
宝塚ホテルに小休す。夕川口来る。小酌す。
一〇・五〇P発夜行、大社に向ふ。

八月六日 火
午前大社参拝。夕松江。皆美館に泊す。高橋市長大に歓迎す。鳥取と島根の紀念塔に一〇〇円宛寄附す。

八月七日 水
午前境と美保関の忠魂碑に参拝。美保関にて歓迎さる。衣笠に乗艦。

八月八日 木
九A出港、5S、4Sの戦技と夜戦を見る。

八月九日 金
未明栗田湾□直舞鶴に行き、一〇・五〇Aの汽車にて亀岡に行き、保津川を下り嵐山「ちどり」に晩餐を為す。一菊(久子)大につとむ。九・五〇P発帰京。財部、安保、竹下〔勇、大将、軍事参議官〕同行。

といった具合であった(同83頁)。

こうして見ると、やはり2年前に自身が強いた過酷な演習による事故については特に言及もなく、美保関での「歓迎」を記している。そして出雲大社と演習からの帰り道に、京都の嵐山で芸者だろうか、宴席を設けてお楽しみだったという、さすがmmkの海軍士官の世界といった感じの記述でいささか毒気を抜かれたというところである。

改めて宿泊場所に着目すると、実は美保関の福間館に加藤が滞在したことが明示された具体的な記述は、見当たらないことが分かる。宝塚のホテルに滞在した後、出発駅は明示していないが8月5日の午後10時50分発の夜行で出雲方面に向かっているのでこの日は車中泊、翌6日は出雲大社参拝の後夕方に松江市に到着し、「皆美館」という松江市のこちらも結構な文化人達が滞在したことのある旅館に宿泊したという記述がある。そうなると8月7日に、美保関の忠魂碑(日露戦争後建立のものだろうか)参拝の後で、「美保関にて歓迎さる」という記述の部分で滞在したのだろうか。

8月7日には既に「衣笠に乗艦」という記述があるので、素直に理解するならば7日は重巡洋艦衣笠の艦内に泊まったとも読めるけれども、翌8月8日の艦隊が午前9時の出発だったという点からすると、一旦衣笠に乗艦した後美保関にて宿泊したか、美保関の旅館には宿泊ではなく訪問時に滞在し休憩したか、のいずれかということになるだろうか。

またはっきりとは判読できないが、どうもDG-Lawさんの撮られた写真だと、加藤寛治の訪問は「昭和四年九月」と書かれているようだけれども、これは昭和四年八月であるべきところだろう。1929年9月には加藤は山陰方面を訪問していないし、1930年9月・1931年9月についても念のため確認したがそのような記述は存在しなかった。なお1930年9月はまさにロンドン海軍軍縮会議を巡る動きが活発な時期であり緊迫した記述も見られている他、1931年9月の後半には満州事変勃発に関連する記事もある。

以上、少なくとも加藤寛治の日記に当たる限り、加藤の1929年8月の美保関訪問は史料上も確かであり、美保関の旅館についても史料上は滞在か宿泊かははっきりしないがこれは宿泊と推測しても良いと思われるけれども、旅館に掲げる以上は9月ではなく8月とした方が良いのではなかろうか、という辺りで、1年も間が空いた割にさしたる考察もないこの小文を終えることとしたい。