小野不由美『黄昏の岸 暁の天』

 今年の回顧記事を出そうと思ったら、まだまだ既読で記事にしていない本が何冊もあって、取りあえず書けるものから書いていくことにする。

 今年『風の万里 黎明の空』から『丕緒の鳥』までを一気に読んでいくつか記事も書いておいて、今更十二国記シリーズについて白状しなければならないのは、実は当方未だに『魔性の子』は未読で、『月の影 影の海』以降しか読んでいないということと、もう1つは実は戴麒の物語に余り感情移入出来ない人間であるということで、これが筋金入りのシリーズ読者に対してはかなりの負い目になっている。

 『黄昏の岸 暁の天』は、そのような当方にとっては、筋自体は実にあっさりとしているように感じられてしまう。『月の影 影の海』〜『風の万里 黎明の空』と進んできた景王陽子の物語と、『風の海 迷宮の岸』の戴麒の物語とが交差するという節目であり、戴麒の帰還と新たな苦難との始まりという、かなり大きな動きが起きるにもかかわらず、そのことが予定調和に思えてしまう。

 ということで、どういう点に面白みがあったかと言えば、例えば十二国の諸王の描写ということになる。延王は『東の海神 西の滄海』に比べると随分煮え切らない、若手陽子の引き立て役という損な役回りに廻っているのはちょっと惜しい。ただ氾王という、延王ですら食えない御仁が新たな王として出現してくる辺りはさすがと言う他ない。

一番印象的だった場面は、戴麒を召還する場面でも、戴麒と李斎の旅立ちの場面でもなくて、その間に挟まれた、陽子に浩瀚が反論するところだったように思う。クーデターに晒され王としての自己の存在を半ば醒めて観ている陽子に対し、これでもかと浩瀚は徹底的に反論し、犯人たちを断罪する。聡明な浩瀚には陽子の抱く醒めた視点は当然理解出来ていた筈で、もしも陽子がその点を忘れて主観に溺れる日が来れば浩瀚もこれを諫めるに違いないのだけれど、ここでは敢えて冷徹に統治と人道の本質から外れた犯人たちの卑小さを批判している。そしてその理路整然たる議論の奥に、そこはかとなく統治者である陽子を励ます温かさが感じられる辺りが、また良い。

ちなみに、私の中での勝手な浩瀚像は、大岡越前守を演じていた頃の加藤剛だったりする。