小田実『われ=われの哲学』

小田実に対する悪評は、ウェブ上では事欠かない。
では彼の文章に対する悪評を見るかと言えば、まずお目にかからないのが常ではないだろうか。せいぜい、彼の文章の一部に示された認識の一部を、いささか暴露的に引用しているに過ぎない場合が見受けられる。

小田実は読まれていないのではないか、それが2015年に本書を手に取った私の、周囲を伺っての偽らざる実感である。

何しろ本書は品切れであるし、岩波書店でさえ彼の著作の多くは品切れか、良くて「在庫希少」という状況である。2011年の震災と原発事故後、岩波が阪神大震災の経験から書かれた彼の「難死」に関する一連の著作を、積極的に売り込んだという話を、私は残念ながら知らない。2015年の秋に、安保法制が成立するまでの一連の過程の中で、岩波が彼の反戦市民運動に関する著作をアピールし復刊したという話も、残念ながら寡聞にして知らない。

むしろ数年前「われわれの小田実」という追悼特集を組んだのが藤原書店であるということに、どうにも岩波書店等の小田実への冷淡と言っても良い消極的な姿勢を感じざるを得ない。まあ藤原書店岡田英弘ごときを大々的に売り込んでいる辺りは率直に言って全く評価出来ないのだけれど、小田実で特集を組むという柔軟さは、大いに評価したい。またそういった中で講談社が大部の『小田実全集』全82巻を電子版と冊子体とでそれぞれ出したのは、これも大した企画だと思う。

直に、同時代に小田に接したわけではないので、当方にとって小田という人は、実は必ずしも魅力的ではないのだけれども、彼の文章は教条的ではなく、平明で読んでいて面白いと素直に感じさせられるものがある。

多分小田という書き手はいい加減で、じっと何かに専念することは不得手なのだろうと思う。その書き散らした感じが、読むと面白い。

本書で言われていることは、要約するとそう大量ではない。普段生きている中で何事も起こらないと思われている「場」に対して、「場」の中に潜み多くの問題を抱えている「現場」が、日常的な生活の「場」の中から現れてくるということ。

そしてその「現場」の中で個としての人間が、「人の世の情け」や「道理」といった倫理に照らして、「殺す」側に立つのか「助ける」側に立つのかという選択を迫られること。

それぞれの個の「現場」、「われ」の「現場」と他者である「われ」の「現場」とが合わさり、「われ=われ」の「現場」が形成され、「われら」のような共通性を基盤としない異なる者同士の「われ=われ」という関係が成り立つということ。

どうにも、堅さがない。「現場」にしても著者自身が「恋愛の現場」と言われることはないが「不倫」や「殺人」には現場という語が使われるといった例を挙げているし(10頁)、「人の世の情け」や「道理」などは、およそ「進歩的」ではない、むしろ前近代的な感覚なのかもしれない。

この著者の「今日よりよい明日の場」というささやかかもしれない発想に、2015年の「進歩派」「革新派」はどのように向き合うのだろうか、という点に一「保守派」としての筆者は関心を寄せているし、保守主義はどうこの素朴な「倫理」に接していったものか、などと感じている。